寝床

アニメや漫画

UVERworldの音楽世界観

  先週、仙台のライブに行ってから、ずっとUVERworldの曲を聴き続けている。

  ライブにはあまり行かない主義であった。というのも、私は片頭痛持ちであり、大きな音があると痛みを誘発しやすいからである。また人混みも苦手で、学生時代は外出もいくことを拒むほどであった。今はイベントに積極的に参加するほどであるが、これは考え方をがらりと変えた結果だからだ。それについては本題ではないので割愛。

  家族ぐるみではまりだして、家族が積極的にライブに行くようになって、つられて行くようになった。ライブに行くことはきっといい経験になると思ったからだ。その結果が今のこの気持ちであるならば良かったということにしておこう。経験に頼りすぎるのも、麻薬に頼るのと同じであると思うので、こういう書き方をしている。


UVERworldを聴き続けて、もう何年経つのだろうか。アニメの主題歌、D–Gray manかガンダム00か、どちらだかのOPに感銘を受け、『AwakeEve』というアルバムをずっと流して青春の一部とし、クラスメイトに偶然UVERworld好きなかたがおり、どんどんハマっていった記憶がある。そのかたとは今は疎遠だが、私もここまで正直UVERworldにハマるとは思っていなかった。そのクラスメイトがいなければ、家族ぐるみでハマるくらいに、影響を受けていなかっただろう。


  ただ、もし、私がここでUVERworldの魅力を詳細に語ったところで、意味がないだろう。例えばエッジヴォイスが好ましいとか、バスドラが素晴らしいとか、そのような指摘だ。というのも、それはただ私のみている主観の世界であり、UVERworldの音楽世界観そのものではないからだ。私がUVERworldを語るということは、あくまでUVERworldに感銘を受けた私の言葉である。結局のところ、私は最後にこう言うだろう、UVERworldをぜひとも聴いてほしいと。しかしそうすると矛盾が生じる。音楽とは、旋律であり、文字列ではない。視覚作用ではなく、聴覚作用である。こうして文字を追っていてもUVERworldを聴くことはしていない。この文章を読んでから、一アクション二アクション起こさなければ、UVERworldの音楽世界観を経験することはできない。そしてそのアクションは、あなたにとって、身軽なものかもしれないし、また腰が重いものかもしれない。黙ってUVERworldの音楽をイヤホン片手に、私の身体ごと飛んでいって聴かせられればよいが、不特定多数に読まれるであろうこの文章では、そんなことは不可能だ。私はこうしてUVERworldの音楽世界観がどうあるのか、分析に努めることしかできない。そうすることで、少しでもUVERworldという音楽世界観の吸引力になることを祈るしかない。

  また、魅力という言葉はその言葉自体が誘惑に包まれていて、非常に相対的なものだ。あるものを「魅力的」と判断するーーある人を天才と呼んでみたり、ある人を幸福と呼んでみたり、ある人を好きだといってみたりーーそれは、世界の尺度によって様々変わる。変わると言うことは絶対がないと言うことであり、例えば「天才とはなにか」といっても分野によって一概には言うことが難しいように(当然のことながら、時代によってある程度普遍的な音楽、言語、詩などに天才が現れることはある)、判断者、それも適切な、そんな人は、ころころと変遷してしていくのである。これは確かショーペンハウアーあたりが幸福について語った本でなんか言っていた、はず。うろ覚え。そんなもん。往々にして、魅力というものを、自覚している人というのは、存外少ないものであると、最近つくづく思う。私を含めて。


  さて本題であるが、ある曲を例として挙げよう。それは『体温』だ。最近発売されたBALLADE BESTに新録として収録されている。

  『体温』、それは単語だ。肌と肌が触れて感じる時、それはより実感できる単語であるだろう。ラブソングのこの曲は、形の見えないものが信じられられなくて不安になって泣いてしまう君と、口づけで言葉を遮る僕の情景からサビへ。愛に形がほしい、形がなくても愛とよべるものがあると信じている、すれ違いを甘い言葉で優しく囁く。

体温。それは実感できるもの。しかし君は、愛を形のないものと不安がり、別れようとおそらく不安がってしまっている。君からもらったスニーカーは減り、現実では腹が減っている。僕は夢の中で眠る。ただ一緒なだけで笑えてたじゃん? と優しく問いかける。たしかにあったでしょ? と問いかける。見えないから愛の本質が見えるのかもしれないと。そう説いてもみる。最後には形のない見えない体温が唇に残っている。

  語らないといいつつ、つらつらと述べてしまったが、おおよそこのような筋書きのストーリーだろうか。ど直球のすれ違いラブソングだというのが所感である。おそらく以前のアップテンポとアニソンしか聞かなかった私であるならばあまり好きでなかっただろうし、趣味の幅と積極的にバラードを聴くようになった影響もあるのだろう。

  『体温』から読みとれる音楽世界観は「形のない愛への信仰」だ。『体温』という題名であるにもかかわらず。こういうちょっとアンバランスな、立ち止まって考えてみると違和感を覚えて、いざ思考してみると答えがちゃんと出るような作品は、私をUVERworldの音楽世界観の魅力へと引きずりこむ。


  音楽というのは言葉であり、世界は言葉でできている。少なくとも、人間の景色にとっては。音楽を聴いていると、私の世界が明瞭になっている感覚がはっきりとなっていくと同時に、少し寂しくもなる。私と同じ感想を抱く人は、おそらく一人もこの世界にはいないだろうとはっきりわかってしまうからだ。だから、私はこうして文章を書き、幸福の道を前進し続けるのであろう。それは私が寂しくないようにではなく、また名声や富のためでもなく、私のみている世界をきちんと映し出し、私自身を清算するために。


BDP5th 雑記

 2018年10月7日(日)、横浜産貿ホール・マリネリアにて、BDP5th(BamG Dreamer's Party! 5th STAGE)に参加した。サークル参加、つまり、同人誌を発行する側としてである。
 同人誌即売会には、過去に一度だけ、知人に文フリに誘われ、行ったことはあったものの、サークル参加は初めてだ。二次創作は色々とやってきたが、本を出そうという思いは弱かった。本を出して、わざわざ会場に足を運んで、知らない人ばっかりいる空間にいるくらいなら、一人でやってたほうがましだと思っていたからだ。二次創作をするにあたって、今もそのスタンスは変わらない。けれど、変化があったのは、本にすることそのものだ。ネット媒体だと、たとえばサービスが終了してしまえば、いとも簡単に見れなくなってしまったりすることがある。文章を作家が消してしまえば、なかったことになってしまえる。これはネットに限らず、ちょっと見渡せば、あらゆるところに見られることではないだろうか。たとえばアニメでは、VHSではもうみんなアニメを再生しない。VHSをみるためには専用の機器が必要になる。DVD、BDと媒体が変遷していくが、それがいつまで持続していくかはわからない。音楽もそうだ。レコードやカセットテープは主流でなくなり、CDも形をかえて、データ販売が主になっている。アニメも音楽も文章も、誰か(複数であったり、単独であったりする違いはもちろんあるが)の記憶だ。その記憶が、時の流れによって再生できなくなってしまうという事実は、想像すると悲しい。
 本は残る。燃えたりしてしまえばそれまでだが、やっぱり残る。だから、私は、同人誌発行に前向きになっていった。そして、いずれ私は私の過去のことを忘れてしまうだろう。それを思い出す作業の一部として、本は役立つかもしれない。忘れたくなくて、残しておきたくて、踏み切ったのかもしれない。

 閑話休題、文章を書くというのは、孤独な作業である。二次創作ならば原案など、あるいは他人の案を持ってきたりはしても、文章を書くのは作家ただ一人の作業になる。
 しかし今回私が書いた同人誌は、そうではなかった。それは相互執筆という形態をとっていたからだ。
 相互執筆とは、複数の作家が集まって、原稿を回していく執筆である。私とお相手のかた、二人で行った。
 まず、この企画は、お相手のかたが、相互執筆をやりたいといっていたところに、私が乗っかったのが始まりだ。前述したように、本を出すことに前向きになった私が、ノリでのっかった。
 スケジュールを確定してしまえば途中しにかけても追い詰められて本は出来るだろう。そんな感じだった。結果的ほぼこの感覚は当たっていたような気がする。まずはアクション。
 実際にお会いして、話し合うことに。お相手のかたが同人誌発行の経験があったので、話を聞きながら、題材を固めることに。バンドリの薫と千聖、MV撮影という基盤が固まり、入稿までのスケジュールを、提示してくださる。執筆は一週間交代。費用は折半。途中、私は体調を崩し、影響してスケジュールを押したが、それでもコピー本を作る余裕も出来ていた。結果的に、内容も間延びしない結果となりよかっただろうと、終わった後に話し合っていた。
 相互執筆をするのは、アニメを作るのとよく似ているのではなかったかと、振り返ると思う。アニメは集団作業である。案があって、脚本からコンテがあがり、原画があがり、修正され、背景や3D、美術を設定、並行して音声収録や音響を調整、そしてテレビ放映。ここらへんはアニメ『SHIROBAKO』をみていただけるとわかりやすいと思うが、このスケジュールを調整する役として制作進行がいる。私達は、相互執筆を通して、お互い制作進行をしながら、それぞれの役割をしていたと思う。今に思えば大変な作業であるし、本を手にとっていただいたかたにはおわかりになるかと思うが、そういう結構嘘っぽいことをやっていると、少なくとも私は、強く意識していた。

 さて、アニメや漫画界隈における小説同人誌というのは、絵や漫画よりも売れない。しかし、バンドリは小説同人誌を出すサークルが多いらしく、みると100ページを超える本を出したり何冊も刊行しているサークルもたくさんある。ちょっと前に聞いたのは、今はパソコンを持っていない環境でもスマホがあるので、小説に逆になじみが出てきている。気軽にみられるのは絵だが気軽に書けるのは小説だ。だから小説書く人が多くなったのではないかと。他にももっとたくさんの要因が重なるのだろう。バンドリはテキストゲーだとか。
 ありがたい事に、当日、作った本は、完売した。早い段階で捌けてしまい、どちらも驚いていた。
 部数の件は本当に悩みの種で、どのくらい売れるかは正直読めない。売れすぎても楽しみにしてもらえてくれた人の手に渡らないし(そもそも私が本にしたい理由が記憶を残したいだから、欲しい人のもとに渡らないと私の意味がなくなってしまう、気がすまない)、かといって刷りすぎると在庫を抱えて大変になる。とりあえず売れ残りは避けよう、そしてあまったら通販にまわそう、と思っていたら、完売。マジか。
 これにはさまざまな要因が重なっていたと思う。ツイッターリツイートをバンバンしたこと。そして本の表紙が非常に印象的だったこと(具体的には、アニメのようなデフォルメではなくリアルタッチで、ジャンルから外れた魅力を与える)。できるだけ文章もみやすいよう考えてみた。その結果もあるのかなと思う。でもやっぱり一番は、お相手のかたが本を出すという吸引力かもしれない。ただこればっかりは、何が大きい要因かなどは、予測するだけ徒労に終わるので、区切る。

 本が手元から離れていく瞬間というのは不思議なもので、いずれ捨てられるかも燃える未来かもわからないが、それでも読まれてくれたらいいなと同時に思う。私のそばには今、昔買ったアイドルマスターの同人誌がある。本をだいぶ整理しはじめたが、本にするのはマジ大事なんだな、と実感している。

 会場内でも、隣のスペースのかたも気軽に話しかけてくださって、心強かったのを覚えている。代わりに店番もした時間もちょっとだけだがあった。臨機応変も大事である。即売会の醍醐味なのだなと楽しさを味わった。昔ならテンパってただろうにな、と承諾したのを思い出せる。
 また、スペースにお越しいただき、挨拶してくださったかたもいらっしゃった。本を交換したり、お話したり、また私がスペースに行って、話しができたり。貴重な体験である。

 色々なスペースに行き、そして私も色々な本を買った。私はこの本をたくさん読んで、そして保存し、記憶にとどめることだろう。

 二次創作やここに雑記などを書くことは、趣味だ。私の好きでやっていることだ。そう自信を持ってきっぱり言うまでには一応紆余曲折あったものの、そういう気持ちでいる。だが、私の文章が好きであるという人は、結構いてくれるらしいというのを、初めて実感したような気がする。言われたことはあるし、そうなのかとは思っていたものの、いや、びっくりした。マジ。

 これを機に自分で本を発行する機会を増やしたり、積極的に企画に参加してみようと思っている。初めて作ったのがこの本でよかったと、改めて実感している。感謝してもしきれない気持ちでいっぱいである。

雑記

ニュースとかみればわかるように、メディア媒体は真実を語るわけではない。メディアを通すというのはそういうこと。で、これは人間同士の言葉でもそう。相手の真実なんて伝わらない。その人が嘘をつけば真実じゃなくなるから。アニメも小説も漫画映画も、作品にはある一つの真実があると思いがちだ。

どうして作品に真実味が帯びてくると誤解するかというと、実はこんな事実があったんですという論拠があちこちから出てきたりするから。それは作者からだったり内通者だったり関係者だったりゴシップだったりまあ色々。ただ、それが作品の真実性に関する論拠として成立するかというと、曖昧。なぜならそもそも作品と作者と、その読者はすべて独立するから。

しかし作品に真実がないから解釈は何でもいいというのでなく、妥当性、最もらしさ、これが一番近いんじゃない?というのはあるんじゃないと。で、二次創作は作品解釈の可能性を広げるよね?そういう観点ですげえっていう見方もできるんじゃ?っていう。ここら辺は詳しくはわかりません。意見もわかれるかなと。私はキリンじゃないからわからないことだらけ。

音楽少女 雑記

「例えば応援してるアイドルのことをずっとみている人がいる。当然そのビジョンはアイドル側にはわからない。断絶。逆も然り。でも心に永遠少年がある限り、その人とアイドルとまだみぬ音楽少女の声を聞く誰かのシャイニングピースが埋まる。ON STAGE LIFEを感じてサイリウム振れる。音楽少女はその証明」


「マジ面白いですよ。音楽少女。永遠少年ってOPの「いや少女やろ」ってツッコミにもちゃんと訳があるんです。私たちの心には性別や年齢を問わず、永遠少年が存在するんです」


「はなこは音楽の擬人化なんだけど、音楽って誰かが聞かなきゃ見つけてもらえないわけで、それは音楽少女も同じで、で、もし例えば、音楽がわからない人がいたとして、音楽少女に虜にされる可能性あるかって考えた時、彼女たちがアイドルであるってところが重要になってくると思う。

アイドルは歌う。踊る。トークする。メイク。お芝居。色々なことをやってきた。音楽がわからなくても、もしかしたら、音楽少女というアイドルを通して、音楽で、性別や年齢を超えて、感情を共有できるのかもしれない。音楽少女がアイドルたる所以はそういうことなのかもしれない。

はなこは最後に自分自身をみつける。誰かが誰かをみつけること。この連鎖が循環して、世界はいつまでも広がって行く。音楽少女というアイドルが、もし解散したとしても、その胸に音楽がある限り、きっと音楽少女というアイドルは宿っている。生きてるって音楽少女なんだよな」


「お願いマーガレット夢のロシアンルーレット、最初めちゃくちゃ笑ったんだけど、花占いしてるのにロシアンルーレットっておかしい。好き嫌いの二択なのに。最後の一枚に願う。その願いは自分で簡単に変えられる。好き嫌いの順番でなくてもいい、全備好きでもいい。そうすれば好きが叶うかもしれない。

でも、そんなことしたって、好きは完璧にならない。願いは変えられるから。嫌いにもできちゃうから。その気持ちはらくがきだから。だから、完成させて、完璧にしてみる。それが、お願いマーガレット。って感じ?でも相変わらずえんじ→青ってなに。やっぱ夕方からの変遷でいいかなあ

お願いマーガレット、よく歌詞見たら思ってたよりロマンチックだ。最後にちぎる魔法にかけてみたい、なのか。そこから落書き→覚悟、カンペキナモノ。でもこれ、お願いマーガレットが主語じゃないよね。主語はあくまで、音、だよね。音を奏でれば〜って」


ツイートをブログでまとめるという手法を気に入ったので、この方法を用いようと思う。今回の題材は音楽少女。2018年夏アニメである。


http://ongaku-shoujo.jp/


基本アイドルアニメと女の子が出るアニメが好きで、今期も色々なアニメをみたが、その中でなぜこの作品が私に特に刺さったかというと、

「適度に遊び心がある(バカアニメ)」

「テーマが一貫しており、脚本がそのことに対し真摯(テクニカル)」

「キャラの思考と世界観が矛盾しない(ロジカル)」

「物語的な嘘を、キャラも世界観も、適度についている(フィクション度高し)」

だからである。


1、「適度に遊び心がある」について。見ていただければお分かりの通り。例として3話。急に倒立しないでほしい。6話。急に歌詞を作るとか言わないでほしい。急にナツメ先生、美来に合わせて踊らないでほしい。バカアニメたる所以である。しかし、これらは全て、後述のロジカルさに帰結する行動である。一見奇抜に見えてしまうけど、意味がある行動になっていってしまっているのだ。音楽少女とはそういうアニメである。


2、「テーマが一貫しており、脚本がそのことに対し真摯」について。初めから終わりまで、この作品で描いているのは、山田木はなこの物語である。天才音楽家の娘であり、才能に恵まれ、海外在住、世間知らず、主体性がない、一人っ子である彼女が、そしてアイドルという存在を親の口伝でしか知らなかった彼女が、アイドルをモンスターだと思っていて、愛着は自分で作っているほどで、日本にやってきてはじめてアイドルの正体を知り、音楽少女というアイドルのそばで応援するうち、自分のやりたいことを再発見する。音楽少女のシャイニング・ピースのなかにはなこがいることを、はなこ自身が見いだす。

この筋書きを、各話ごと、各キャラをフォーカスしながら「応援する」形で、あくまで物語の主体はアイドルである音楽少女たちにし、視聴者にみせる。それぞれはなこは、各キャラたちと交流を持つことで、相対的に自分のことを考えていく。


3、「キャラの思考と世界観が矛盾しない」について。キャラが熱血系だとして、世界観が緻密な舞台だとしても、動かしにくいように、それぞれキャラに適した思考と世界観というのは存在する。音楽少女は両方マッチしている。最終話を見てもらえれば一目瞭然である。観客は徹底的に、音楽少女というアイドルを一つの娯楽物として消費しかしていない。フェスという場所において、その傾向は特に強まる。音楽少女だけのために観客はフェスに足を運んでいるわけではないからだ。音楽のために足を運んでるのか、あるバンド目的か、はたまたウェイしたい目的か。理由は様々だ。そんな様々な理由な人々がいる、それを許容する、そんな世界である。

遡って6話、これは私が一番大好きな話数なのだが、人は性別や年齢を超えて、感情を共有することができる、とナツメ先生は言っている。最終話では、全くそれは達成されていない。はなこの行為をおもしろがった観客が好奇心で集まっているから、結果的に動員数が増えた、たったそれだけだ。観客は音楽少女というアイドルに心を動かされたわけではない。音楽少女というアイドルという娯楽を消費していた。

シビアな描写は、はなこのどこか残酷で、冷徹で、どこまでも論理的になれてしまって、正論をかましていってしまって、アイドル界隈に慣れてないそんな思考と、マッチする。2話の「じゃあみんなもテレビに出ればいいじゃん」と、簡単に言ってしまう人であるのだ。それが難しいことをわかっているから、ほかのキャラは黙って、はなこを哀れみの目で見つめるし、黙ってられない羽織は、反論する。


4、「物語的な嘘を、キャラも世界観も、適度についている」について。これははなこの両親や、池橋Pが当てはまるだろう。あんなスムーズに会話が進むのは、御都合主義としか言えないだろう。しかし、これらは、物語内にある説得力が積み重なっていけば、物語内では、どんどん真になっていく。はなこの両親は天才音楽家であり、音楽少女のプロデュースを担当している池橋Pの知り合いであった。はなこの両親ははなこの主体性のなさや迷子になりやすいことを諸々気にかけていたらしいことを、1、2話では気づかせてくれる。そしてはなこにアイドルという存在を言葉で語った母親は、はなこに、音痴であったはなこに、音楽が寄り添ってくれる、と語る。父親も、母親の一押しにより、自分たちの愛する音楽で彼女が前へ進めるのならば、と応援する。池橋Pは情熱を握りしめてガチコンを連発する。

年端もいかない少女が急にはちょっととか、そもそもアイドルでないのにとか、そういう疑問は不要だ。はなこには音楽が寄り添ってくれる。音楽少女というアイドルが寄り添ってくれる。それだけで、この物語的には、十分だった。現実ではこれは嘘だが、物語的には真だ。はなこはあの中で確実に生き、最終話で、音楽少女のシャイニングピースとなっている。



一通り音楽少女のアニメを語ったところで、これからは好き勝手、音楽少女の気に入っている部分、気になる部分ついて語ろうと思う。



・永遠少年

コンテがよい。観客視点ではない、はなこ視点。これははなこの物語であるから。同時に人物紹介も兼ねる。

サビ前のはなこが走るシーンが気に入っている。ハコが大きくなれば大きくなるほど頑張らなくちゃいけない。何に対して頑張ればいいかわからなくなる時もあるかもしれないけど、とにかく頑張っていけば音楽少女は大きくなるかもしれない。はなこは自分自身さえ知らなかった人だ。やっと自分の道を見つけた人だ。頑張らないわけがないのだ。そして、音楽少女というアイドルは飛ぶ。観客に向かって。はなこは見る。その後ろ姿を。

いつか立ちたいと。あの場所に。無自覚に、そう、思っていたのだろうか。最終話をみると、そう思ってしまう自分がいる。

「マジ面白いですよ。音楽少女。永遠少年ってOPの「いや少女やろ」ってツッコミにもちゃんと訳があるんです。私たちの心には性別や年齢を問わず、永遠少年が存在するんです」というツイートだが、永遠少年とは、未来への原始的な原動力だと私は解釈している。6話参照。

例えば、同じ旅行に行った人が数人いるとする。急遽、事情で旅行に行けなかった人が一名出てしまった。その一人は、仲間外れになってしまうだろうか?旅行に行けなくて、同じ景色を、旅行を体験できないから?いいえ。例えば言葉、例えば写真、例えば音楽、色々な手段で、感情は共有することはできる。経験だけが、共有の手段ではない。




・山田木はなこは音楽の擬人化である

前提として、音楽とは言葉である。言葉とは論理的なものである。

日陽がギフテッド足り得るのは、音楽が論理的なものであるからだ。文法が成り立ち、学習ができるものであるからだ。だから早熟な子どもが成り立つ(なんの分野のギフテッドであるのかは詳しく言われてなかったけれど、おそらく音楽方面に長けているのだろう。世界は音楽であふれている、という反応で、音符が生まれたのを見る限り)。

はなこのキャラは一貫して、音楽少女というアイドルが好きが出発点で、そこからどう動くか、という点において、音楽である。彼女は音楽少女というアイドルという名の音楽を奏でているのである。しかしはなこはあくまで音楽の擬人化であるので、バグがある。音痴なのだ。で、音痴っていうのは、アイドルの魅力として成り立つ(音痴設定って最後になくなったのだっけ?)。


ところで、どうして音楽少女はアイドルでならなければならなかったのだろう。アイドルが歌わなければならない根源が、問われているような気がする。ここで一つ思考実験。「音楽が聞こえない人に音楽少女ぼ歌を届けるためにはどうすればよいのか」。音楽だけでは不可能だ。その人は音楽が聞こえない、つまり、音のない世界に生きている。

しかしアイドルならば。アニメで様々描写されているように、アイドルは歌う。踊る。トークする。メイク。お芝居。色々なことをやってきた。音楽少女というアイドルを通して、音楽で、性別や年齢を超えて、感情を共有できるのかもしれない。音楽少女がアイドルたる所以はそういうことなのかもしれない。

10話のような話、誰かが誰かをみつけること。この連鎖が循環して、世界はいつまでも広がって行く。将来、音楽少女というアイドルが、もし解散したとしても、聴いていた胸に音楽がある限り、きっと音楽少女というアイドルは、ずっと宿る。音楽にはそういう力がある。アイドルにはそういう力がある。



・お願いマーガレット

お願いマーガレット夢のロシアンルーレットと聴いたときは、正直笑ったのだが、花占いしてるのに、ロシアンルーレットっておかしいのだ。そもそも花占いは、好き嫌いの二択だ。

というか、魔法にかけてみたい、と願った時点で、自分で簡単に変えられる。好き嫌いの順番でなくてもいい、全備好きでもいい。そうすれば好きが叶うかもしれない。

でも、そんなことしたって、好きは完璧にならない。願いは変えられるから。好きを嫌いにもできちゃうから。その気持ちはらくがきだから。だから、落書きから覚悟にかえ、完璧にしてみる。それが、お願いマーガレット。って感じかも、と思ったが。

落書き、っていうのは、ひとりのエピローグっていうのにもかかっているのかもしれない。それは独り言。キャラで言えば日陽。それを作曲担当絵里、コミュニケーション担当はなこが、覚悟に変えてカンペキナモノにしようと声をかけて、音楽を、ワンルームから世界に届けよう、と。

この曲、お願いマーガレットが主語じゃない。主語はあくまで、音。音を奏でれば〜。なので、音楽、という見方は、もっともらしい、はず。

3話の着目すると、エンジ色の空青く染まる=日陽と絵里、花占いをしたあとの茎=マーガレット=はなこ、という感じだろうか。イメージカラーと照らし合わせて。しかし、エンジ色の空青く染まるって、どういう状況なんだろうか。普通逆ではなかろうか。音楽少女を通して、まだ知らない景色がみれそうだ。


刀使ノ巫女 雑記

「同じ産道を通って来なくとも、成長し、胎動をその胸に宿してそれを共に感じられることはすなわち百合なんだな。姉妹は百合だし親子は百合だし世界は百合で出来ている」

「世界は百合に包まれている。生きている即ち百合。だからこそ特大感情があれば百合が釣れるとは限らない。あなたの胸の胎動をよく聴いて。百合の息吹を感じて」


2018年4月下旬のツイートにて、私はこのようなことを呟いている。一見するとよくわからないかもしれないが、共通して、あるアニメをみたことが原因である。それは何かというと、刀使ノ巫女というアニメだ。


http://tojinomiko.jp/

刀使ノ巫女の詳細は公式ホームページにお任せするとして、なぜこのような感想を、過去の私は持っているか。

それにはまず、様々な背景を説明しなければならない。まず、刀使ノ巫女は2018年1月から6月に渡って放送された、2クールの、オリジナルアニメである。4月時点でのツイートということは、まだ1クール目の途中の感想である。

さらに、私は刀使ノ巫女のアニメを、最初は、2話くらいみて「退屈だな」と感じ、切った。そして11話ほど放送された後、なにやらTLが騒がしい様子が伺え、そんな話題のクソアニメならばみようかなと思い、好奇心で再生していた。設定が緻密に構築されていく設定厨の私はドツボにはまった。そして何より、メインキャラの死亡という想定もしていなかった出来事に遭遇し頭が混乱した。

そして合わせて、私は百合が好きだ。女性と女性の関係が好きだ。百合というと、ジャンル分け問題が色々とあるが、あまりここで議論するほど興味がないので、広義に百合と話そうと思う。


可奈美と姫和のお母さんたちと、世代を超えて、結びついた、数奇な運命の話。

現在、アニメを見返している最中で、9話まで視聴している。9話で、荒魂と刀使の歴史は400年の歴史がある、そのほか、ノロの軍事利用の流れとか、何時頃から始まっちゃったのかとか、アメリカの関係とかが、フリードマンの口から語られる。そしてノロを祀るお祭りという、さりげなく私たちの日常にあるイベントの中に、莫大な人間、莫大な世代、莫大な数の国が、関わっていることを、よくわからせてくれる。余談だけど、あの世界、こっちと違い、お祭りって、ノロ管理が徹底されているので、統制されてしまい、明らかに少ないのだろうか。お祭りの歴史もすると随分違うのだろう。誰かオンリーで研究本だしてほしい。


話を戻して、刀使ノ巫女は、人間関係が地図のように広がっていく。たとえば、ある男女、思い浮かべてもらうなら十条家、恋愛関係が横線で結ばれて、そこに子供が生まれて縦線が新たに生まれていくのではなく、波紋状に広がっていき、関わる全ての人々に影響を受け、また影響を及ぼされて、世界に生きていく。どこまでも、即物的な世界であるのだ(そういう意味では、ある意味、刀使ノ巫女は、こっちの世界に超寄り添っていると思う)。例えば、1クール目に限るが、沙耶香に着目してみる。沙耶香は最初、高津学長に従わされている。沙耶香は反抗しない。なぜか。反抗したくてもできなかったのではない。反逆心があったけど抑えていたのではない。反抗する心を自覚できていなかったのだ。それでも高津学長に違和感はあった。でも、これでいいとも思っていた。だって、才能があったから。褒められてはいたから。叱られてもいたから。沙耶香にとって、高津学長は親で、沙耶香はその子どもだったから。

そんな中、沙耶香の心を自覚させてくれた人物が現れてくれる。可奈美、そして舞衣だ。可奈美は言わずもがな、御前試合と、3話の襲撃。7話冒頭で、高津学長にノロ投薬されることを拒否する。どうしてかわからず、沙耶香は逃げ出す。まだ、自分の気持ちに整理がついていない。そして舞衣は7話で、沙耶香の事情を把握しなくても、沙耶香ちゃんの気持ちを聞かせてほしい、と優しく問いかけてくれる。沙耶香は、自分の本当の気持ちをはっきり見つける。「いやだ」と。

ざっくりと見返しているので、他にも沙耶香を中心に、他のキャラクターの関連性を見いだせるかもしれない。まだ見返し途中なので詳しくはなんとも言えないのだが、夜道の関係など。羽島学長と高津学長がすれ違ったシーンで、舞衣と連絡先交換失敗して(初見で完全に失敗してると思ってた)、糸見沙耶香が親衛隊入りし第五席として加入し、結芽とそれなりに仲良くなり、結芽と一緒に行動して五人の前に立ちふさがるんだけど、色々あって仲間になる(でも結芽の運命は覆せない)ifルートの可能性はあるでしょうか。

9話では、エレンに小さな背中を流してもらっていたし(大きくなるためにはちゃんと食べよう。確か、13話で可奈美もびっくりの偏食ぶりを発揮していたが、食べるのは大事だ。もちろん食べ過ぎもよくないけど舞衣ちゃんと料理上手な姫和がきっとなんとかしてくれるエレンは科学の力で創作料理し出すからやめて薫とめて可奈美はつまみ食いするな)。

そして沙耶香が、心を自覚して、2クール目には、内里歩に、かつて可奈美や舞衣、たくさんの人間の地図を学び、剣に込め、託す。そんな世界は、沙耶香みたいなやりとりが無限に続いていき、これからも続いていくのだろう。


話が前後してしまうが、私は砂山さんの脚本担当回が好きだ。BDブックレットの座談会で、フィクション作品における日常描写をとても気にかけていた、という話をされていたからだ。例えば、潜水艦一つとっても、どう動かしてるの?誰が動かしてるの?どこ所属?など。そんなもの誰も気にしていない、と切り捨ててしまえば、それはそれでよいだろう。しかし、ここまで拘ったからこそ、世界観に説得力が増してきたことも、事実であろう。砂山さん担当回にフリードマンが登場するのも、説明台詞が多いのも、そのような理由だろう。このような回は冗長になってしまう場合がどうしても多いだろうし、アニメ視聴者的には、いいからさっさと百合がみたいとか頭に話が入ってこねえとか(実際止め絵で話されるのであまり話が入ってこない、フリップとかやってもらえればありがたかった気もするがどうだろうか)、そういうのは、難しい配分なのだろうなと、設定厨的に考えさせられる。あとエレンがかわいい。




高津学長と沙耶香の関係を親子と比喩したように、各学長とその生徒の関係というのは、まるで親子のよう、というのは、作品を通して思っている。例えば、羽島学長が舞衣と自分を重ねたような。五條学長も、姫和と重ねたのだろうか。いや、どうか。こちらは、五條学長は頭が切れるタイプとみるので、むしろ、姫和の身を案じて、という気がする。それぞれスタイルがまるで違う。真庭学長と薫なんて、姉妹のようだ。錬府と綾小路は、親子なのに利害関係のみで繋がっている無機質さという点で表面上似ているが、錬府はそのまま、綾小路は本心でないと、それぞれスタイルがある。子育ての方針が違うのだ。そして、それぞれの反映が、御前試合とも言えるのではないのだろうか。

大会二連覇して親衛隊第一席を輩出し、こっそり小烏丸を姫和に渡し、とじともでは清香という才能を見出す五條学長まじ強い。



アニメで語られる、美奈都、篝、紫の世代、可奈美や姫和の次世代などの関係に留まらず、いろんな関係が伝播していく。刀使ノ巫女は一つの地図だ。地図は一つの世界だ。世界は百合だ。生きている限り、地面を踏んで空を見上げる限り、百合はそこにある。刀使ノ巫女はそういうアニメだ。

生きてるって百合。


少女☆歌劇レヴュースタァライト(11話まで) 雑記

 少女☆歌劇レヴュースタァライトのアニメが11話まで放送された。7話まで無料配信された際、一気に視聴し、この作品にはまって、舞台版のBDを買うまでに至ったが、7話以降、話の内容がどうにも理解しがたいところがある。
 その前に、まず7話について語っておく。7話は文句なしによくできている傑作だった。
 7話は、大場ななの過去回、掘り下げ回だった。大場ななは、第99回聖翔祭スタァライトを永遠のものにしたいがために、オーディションに勝ち続けて、キリンに願い、第99回聖翔祭を繰り返す。
 7話の面白いところは、スタァライトというアニメにおいて、舞台やアニメ、漫画などのメディアミックス展開ゆえに情報を細かに出せないがゆえに(意図的に隠したりしているということを、メガミマガジンのインタビューでプロデューサーが語っていた)、台詞や状況説明が時々ぶつ切りになってしまうような違和感を、なな一人にうまくフォーカスすることによって、カバーされていたことだ。それが偶然なのか意図されていたことなのかはさておき。ななの孤独な状況が、会話の間、真矢の赦さないという否定の言葉や、クラスメイトと信念が違うことへの不安感、引きのかすかな空を仰ぐ動き、淡い夕焼け、それらによって手に取るようにわかるのだ。
 キリンとの対峙シーンでは、トップスタァになれる、そうすれば永遠の輝きを手に入れられる、舞台少女として才能を開花させることが出来る、という発言を、真っ向から否定する。ななにとって、舞台少女であることは、孤独を癒す手段でしかなかった。でなければ、興味ない、なんて発言しないだろう(ななは勉強が苦手という設定がある。考え事も苦手と同様に考えるなら、「なにそれ」などの疑問返しをするのが、省エネだろう)。キリンとななは、対立している。しかしキリンは、話をすりかえ、もし運命の舞台に立てるとしたら? と悪魔の提案を持ちかける。9話の過去で判明したとおり、孤独を嫌うななは、その誘惑に乗ってしまう。なまじ才能があるものだから、真矢さえ倒してしまう。
 真矢はおそらく、最後まで自分がななに負けた理由はわかっていなかっただろう。彼女は「何が彼女を変えたのか」と原因を聞いている。そんなもの、ななにはない。自分の気持ちがわからなかったけれど、「わかります」って言われたから、孤独がいやなんだなと自分自身の気持ちを肯定できた。みんなを守りたいという気持ちはエゴで強欲まみれだ。しかし、キリンにとっては都合がよい。そのほうがみてて楽しいから。だからキリンはななの手助けをしてくれた。そして、オーディションを仕切っているのは、キリンだ。舞台装置が舞台少女のきらめきによって勝手に動き出すらしいが、オーディションで誰が争うかを選出しているのは誰かというと、キリンであろう。舞台装置がなんていうのは方便だ。キリンが味方をしてくれればいくらだってオーディションは有利になる。
 でも、ななは強いので、飽きる可能性がある。しかし私は、ななの勝ち続けるオーディションを、キリンはそれなりに楽しんでいたのではないのだろうかと思う。彼女は強欲な人間で、完璧な再演を願っているにもかかわらず、行動を少しかえて遊び始める。やってはいけないことをするのだ。
 これは異分子、神楽ひかりがきた時も同様である。ひかりが来た時点で、再演は完全に崩壊する。しかし、ななが言ったことと言えば「あの子もほしくなっちゃいました」。これは、7話の後の時系列である3話をみれば、導かれる結論は一つ、彼女は演劇の楽しさに目覚めているのだ。

 ・・・・・・という話だと思ってたら、8話からよくわからなくなり、結局ななは孤独を誰かにみつけてもらったまま(前日譚まんがであるオーバーチュアを読むと、純那に見つけてもらうために、はじめから動いてたのではないかと、深読みしてしまう)、演劇の楽しさを自覚はしておらず、練習はせず才能にあぐらをかいたままお菓子を焼き続けている。「ひとりで」頑張って脚本を書いた、舞台を愛し、舞台に誠実で、スタァライトをよりよいものへと尽力したらしい脚本担当、雨宮さんには謝らないままだ。聖翔のシステムどうなってるんだろう。コミュニケーションの授業とかしないのかな。
 トップスタァを目指してオーディションをする、そのために戦う、敗者はきらめきを奪われる、その理屈はわかるけれども、どうも内輪にこもりっている話すぎて、これが舞台が題材で、トップスタァを目指す女の子たちの話ですというのが、見失われているように思う。あの天堂真矢でさえも。11話でメイン9人が舞台少女幕間を歌っても、舞台少女たる彼女たちが舞台を届けるべきなのは、未来、あるいは未来にいる観客なのだ。彼女たちは、彼女たちの中だけで、舞台ごっこをしているにすぎない。これが普通の高校の学園祭の話だったら、まだわかる話だったかもしれないが、100年の歴史がある音楽学校という背景設定だと、演劇や歌劇の話をしないと、説得力がないように思うのだ。雨宮さんが華恋に、ひかりのことは忘れて真面目にやれというのは、舞台の世界に生きるものとして、正論なのだ。

 ところで、7話において、退学した生徒が2人、描写された。2人のことについては、もう、メイン9人は、忘れてしまったのだろうか。少なくとも、ななは、2人が退学した事に関して、心を痛めただろう。
 しかし、11話時点では、もうすでに、彼女たちはただのモブである。「舞台はみんなで作り上げる総合芸術」であることを念頭においていないのである。仲間内だけでやりたいのであれば、学校でやらないで、クラブを外で作ればいい。華恋が舞台に執着するのは、ひかりとの約束があるからだが、これだけだと、物語としては動機が薄いし、前述のように雨宮さんの正論に適わない。華恋はカリスマ性あるし、実力も身体能力もあるみたいだし、聖翔にいても、舞台人として生き残れるのかという疑問が付きまとう。

 さておき、話を戻して、退学したあの2人にとって、聖翔音楽学園とは「透明な嵐」そのものだったのではないだろうか。透明な嵐とはユリ熊嵐というアニメの用語で、詳しい説明は、公式サイトやアニメをみていただくことで、割愛する。
 そう、華恋達が団結すればするほど、「透明な嵐」は吹き荒れ、大切なものから壊していく。透明にならない、透明な嵐に排除される危機感に怯えているからといって友達をつくらない、最後までスキをあきらめない人に、「排除の儀」を行って、追放する。
 逆説的になるが、退学した2人は、舞台を愛した人間だったのではないだろうか。それこそ、ユリ熊嵐の、紅羽のような。そして聖翔音楽学園2年A組という「透明な嵐」は、終盤で出てきた、まさしく大木蝶子のような存在だったのではないだろうか。余談だが、私は大木蝶子がスキだ。彼女をスキと言い続けることに意味があると思っている。
 この構成を意図的にやっているのだとしたら、本当に恐れ入るのだけど、どうなんだろうか。私はキリンがわからないし、わかりたくない。


バンドリ雑記4

想定された視点からストーリーを読み、解釈することは、正しさが伴うが、逆が間違いというわけではない。勿論、想定された視点を持っていたほうが、そのストーリーの楽しみかたを熟知している、という時点では、想定された視点でストーリーをみるというのは、あるジャンルのストーリーを初めて読む際、とても重要なことになるだろう。

バンドリガルパがリリースされてから約一年。私も最初は想定された視点からストーリーを楽しんでいたが、そうでない視点へ、徐々に関心が移ろいでいる。バンドリガルパにおける想定された視点については、バンドリ雑記3にて書いた。つまり、バンドリガルパにおいて、キャラクターの視点に沿った描写が想定された視点であること、そしてその視点というのは非常に狭いこと(それがバンドリガルパのすぐれている点だ)、である。

私の関心が移ろう原因が、私の気質にあるのかまた別なのかはさておき、現在私は想定された視点ではないところから、バンドリガルパのストーリーを読んでいるので、当然、その解釈もあるわけだし、それに伴う感想もあるはずである。ブログを確認のために読み返したら、文章が非常に気持ち悪いと感じた。解釈だけ書いてあって、感想を書いていないことに気がついたから。そして、私が言いたい、発したくてたまらなかったのは、感想の部分であるにもかかわらず、それを抑えるかのように振る舞う、私の装いが気に入らなかった。

随分回りくどい前置きになってしまったが、これは私の個人的な納得の方法であり、それをどう言語化するか、悩んだ結果だからである。感想を書こうとして感想を抑えて感想を書かないってどういうことだ、と、ちゃんと書いておかないと、後で私自身も未来の私に過去の私でぶん殴れないからである。

で、肝心の感想部分であるが、私はバンドリガルパの構造はそんなに嫌いというわけではないけど、パスパレ2章が大嫌いだ。その理由を述べることに尽力する。



そもそも私はバンドリガルパの長所である「非常に狭い」価値観自体は苦手である。それは私のような想定された視点でない視点が制約される可能性があるからだし、そういうコミュニティにいがちだった、という個人的な経緯がある。これは経験的なことであり、私にとっても致し方ないことであると思っている。

しかし、パスパレ2章は、どうも説明を個人的経験とは片付けられない、非常に美しくない構造をしている。それは、パスパレ2章では、芸能界(それも現実世界寄りの、不条理が伴う世界)という場所に置かれながら、「努力で夢が叶うわけじゃない」の正反対にある「努力で夢は叶う」という理念としての象徴として描かれる「アイドル」を、そのまま語っている構図そのものに原因があると思う。


2章と限定したのにはわけがある。1章においては、「努力で夢が叶うとは限らない」と「努力で夢は叶う」は、千聖と彩というキャラクターを通じて、見事に対立し、千聖が彩に見せられる、という成長物語があったからである。しかし、2章になると、まるでその場所の時間だけが置き去りにされてしまったかのように、「努力で夢は叶う」が、ストーリー全体に充満している。千聖は「努力で夢は叶う」側へ行ってしまい、スタッフへ懇願する。何をか? 映画とアイドル合同ライブという、無茶なスケジュールをさせてもらえることを、である。

この千聖の行動は、あらゆるバンストを通して、「努力で夢は叶う」を信じ、夢をみてみたかったから、薫に助言をもらったから、と解釈すればなんら疑問は浮かばない。しかし、その前のスタッフの、千聖に対する対応は、千聖の体力を気遣って早めに送迎することであった。千聖はそのスケジュールを押した。なるほど、そもそもスタッフのスケジュール調整が無能なせいで、アイドル合同ライブの参加も突発的だったし、映画の仕事と被ってしまったのも、彼らに非があると言われるのも納得である。無計画さは目立つ。考えてみると、根本的な原因はやはり彼らかもしれない。しかし、それとこれとは話が別で、まず芸能人の体力を気遣うというのは、懸命な判断であっていいはずである。

芸能人の健康をとるか、未来をとるか、それはバンドリガルパ以外でも、各所芸能界の動きをみれば、各々判断が様々なことは容易にわかる。ファンの声や他イベント状況などで、調整が必要な時もある。

気に入らないのは、千聖がこの判断を下したのが、「努力で夢は叶う」というパスパレ内での同調圧力のようなものから生み出された選択肢であり、話のすり替えをしているだけになっているように見えるからである。

同調圧力という言葉を使ったのは、わけがある。解釈に関しては以前の記事を見てほしいが、パスパレがなくなると困るのは、特に日菜とイヴである。この二人は、居場所を失う不安からか、率先して他のメンバーを団結させようと動く。つまり、日菜は5話で彩に発破をかけ、イヴは7話で論点をすり替えパスパレがなくなることを想像つかない彩に巧みに想像させる。影響された彩の行動は、千聖にダイレクトに響く。千聖は彩の信念に魅せられてしまっているからだ。このような過程を経て、千聖の行動がある。麻弥も「アイドルがわからない」と言っていたように、自信がないから自分の意見が言いにくい(テキストに現れにくいのはこれが原因か)。

千聖の行動は、突き詰めれば、寂しさからくるわがままがもとであり、それを「夢」と還元するのは、非常に美しくなく、これまで綺麗に語られてきた「夢」に対して失礼なものだった。

全く別の作品だが、具体例を挙げてみる。ちょっと昔のアニメ作品で『プリティーリズム』シリーズというものがあった。シリーズの一つ『プリティーリズム・レインボーライブ』作中で「子どもを愛さない親はいない」という旨の発言があるが、これは現実世界では否であることは、様々なニュースを鑑みれば、わかるだろう。しかし、『プリティーリズム』シリーズという作品では、登場キャラクターの親子関係における確執を、綺麗に描いている。親に愛されているけれど、家に来たお友達は親がいない子だったり、親に過度の期待を持たされたち、親がストーリーの最初からいなくなってしまっていたり。キャラクターの親子関係は様々だが、一貫してこの作品は、親は子どもを愛するし、また子どもは親を愛している。そこにはなんら疑いもなく、そしていつか捨てられるのではないか、という類の不安もない。「子どもを愛さない親はいない」は成り立ち、いつしかそれをみる私たちにとって「子どもを愛さない親はいない」という言葉が、フィクションを超えて、救いとして響いてくる。

この話のような明瞭さは、パスパレ2章にはない。「目標」の反対の「夢」、「努力で夢は叶うとは限らない」の反対の「努力で夢は叶う」、これらが勧善懲悪として描かれるような話は、例えばプリキュアのようにある程度設定された年齢があって、「努力で夢が叶う」から出発する単純な世界構造でもない限り、物語構造として美しくなく、「夢」という単語を安売りしているだけのようである。


ここで少し話題を変えてみる。「夢」という単語を頻繁に使用するキャラクターは、丸山彩である。彩はずっとアイドルになりたかったと言っている。そしてパスパレでアイドルすることを叶えている。しかし、2章を読んで一つ疑問に思うことがあった。それは千聖との会話で、かつて彩があゆみさんにそうされたように、あゆみさんの言葉を反芻するような言い回しをしていたことだ。これは、見方を変えれば、あゆみさん、彩、千聖、という一つの夢の線が成り立っており、非常にドラマチックなシーンだ、とも言えるかもしれない。しかし先述のように「努力で夢は叶う」ところのパスパレは、日菜とイヴの影響が強く、彩だけのものではない。それどころか彩はパスパレという居場所に対しては受動的でさえありうる。

ここで唐突だが「運命」「試練」という言葉を用いて彩を説明してみようと思う。「運命」ー「試練」は、それぞれパスパレ2章ででてきた単語、「夢」ー「目標」に対応する。つまり、何かしら自分の職業に対し「運命」を感じ全てのことに意味を見出していくことが「夢」、周囲の出来事を偶然の集積と捉え「試練」を乗り越え得るのが「目標」、というように。

彩は、千聖が焦がれる「夢」側の人間であり、「努力で夢は叶う」と発し続ける信念の持ち主であるが、「夢」に対応した「運命」的態度の人間ではなく、「試練」的態度の人間ではないか?私はそう思うのである。

彩はMarmaladeの番組を見て、あゆみさんに憧れ、アイドルを志す。これだけみるならば彩にとってアイドルとは「運命」的な出会いである、と思うかもしれない。しかし彩の態度をみると、(あの無能の事務所に?)研究生生活を3年続けていたり、パスパレがなくなった自分のことを想像できない。これらの対応を、年相応、と言えば納得できなくはないが、では、このままでも彼女はファンに夢を与え続けられるのか?と聞かれたら、私はどこかで挫折してしまうのではないのか、あるいはパスパレで誰より一番早く、と危惧する。夢を与える、とは言うものの、結果的に夢を与える描写はあっても、彼女自身が夢に対する執着する心のありかたが、あまりみられないのだ。その代わりに「千聖みたく有名になりたい」という野心が垣間見えてくるのが、彼女の非常に面白いところではあるのだが、今回のパスパレ2章においては、「努力で夢は叶う」、「夢」を美化しすぎていて、そのアンバランスさも排除されている。「努力で夢は叶う」わけないけどそれを目指すことで燃えるのに、「努力で夢は叶う」と言い張ることでその言い分を叶えてしまい、挙句反対の「努力で夢が叶うとは限らない」(=スタッフ、千聖のもといた場所)を否定していく成敗話。一貫していないので、美しくないストーリーなのである。そしてバンドリガルパなので、非常に狭い見識の話でストーリーが進んでいく。息が苦しくなるのである。



一つ余談を。羽丘演劇部についてである。ここの構造も考えていくうちに、パスパレの中身と似ているのではないのかと思い至り、書き留めておく。パスパレ2章で薫出てきたし。

羽丘演劇部は、薫がいる間はシェイクスピアしかやらないらしい。演劇に関して色々調べると、これはなかなかすごいことだ、と思った。薫の影響力は、想像以上のものだったのだ。

演劇というのは、俳優、演出(全般)、観客、三つが揃って、お互い作用しながら完成するものである。私たちは、今、この三つの項目の外から、演劇部という枠を眺めている。なので(というのもおかしな話だけど)、一番目立ちがちな薫たち俳優に、焦点がいきがちなのも、まあ納得ではある。ところが、薫がいる間はシェイクスピアしかやらないという記述をみる限り、明らかに俳優中心として羽丘演劇部は動いている。薫、シェイクスピアの中身わかってないのに。そもそもオリジナルの戯曲書く人とか、いないのかな。そうか、薫ファンが多いから、なんの問題もないのか、それはそれで儚い、と。あと、シェイクスピアって、会話が中心だから、舞台美術は時代によって結構変えられるという記述をどこかで読んだ。めもっとけばよかった。

話は膨らむが、これが、部活が活発である花咲川で行おうとなれば、少し話は違うかもしれない。全国大会ともなれば、やはり技術的要素が求められてくるのだろう。審査員という外部の人間が入るのだから。そしてバンドリガルパではその存在はいらないから(…そう思うと、『つぼみ開く時』に出た宮川先生は、すごく奇異な存在だったなあと。最終的に、あの話もパスパレ仲よくてよかった、という方向に落ち着いたので、そういう話ではある)。羽丘演劇部は、今の情報から判断するに、薫のカリスマで成り立っている部活だろう。例えば、セットが演劇的にみてぐちゃぐちゃでも、音響がへたでも、薫の演技があればなんら問題ないのである。あと観客も子猫ちゃん(=ファン)だから。最も、麻弥がいるので、簡単にそんなヘマは起こさないとは思うが。綱渡りのようなチームワークで成り立っているすごい関係である。