寝床

アニメや漫画

バンドリ覚書2

氷川日菜という人間をどう解釈するか。私たちはバンドリを遊ぶうえで、プレイヤーという立場から、あるいは任意のキャラの立場から、彼女を間接的にしか理解することしかできない。なぜなら、ゲーム内で、彼女は徹底的に、語り手から断絶された「他人」として描かれているからだ(余談だが弦巻こころや花園たえも該当するだろう)。(…)内でキャラの気持ちが直接伝わらず、一人称として語られない。そのキャラ(市ヶ谷有咲や白鷺千聖、氷川紗夜などが多い。水着イベでは白金燐子が該当するであろう)からみた、断絶された「他人」である氷川日菜という人物の解釈は、私たちを混乱させる要因であり、氷川日菜のことを全く誤解させている。


私たち視聴者、つまりバンドリプレイヤーであるが、それと語り手であるキャラや視点が、日菜を見つめたとき、真っ先に判断する彼女の解釈に該当する言葉は「天才」である。

判断材料はなにか?

なんでもすぐにできる。努力を知らない。擬音語を用いて表現を試みる。美術室の匂いが好き。地図記号が読めない。行動が突飛な変人。人の気持ちがわからないような言動。様々だ。

私たちはキャラの目を通してこれらを知ることができる。例えば。

氷川紗夜は妹である彼女を私とは違って「天才」と評し、自分を卑下する。白鷺千聖は努力を前衛としているが「あなたは天才だからなんでもできるだろうけど」と、日菜を天才であることを前提とし、また自分とは別の人間として分析する。

私たちはある視点からこれらを知ることができる。例えば。

『パスパレ探検隊』で、日菜の行動にメンバーが驚きはしなかったものの疑問は抱かなかった。

私たちは彼女たちの世界観を、無邪気に信じることが、氷川日菜の解釈なのだろうか?いや、それはない。そこには全く論理が結びつかない。私たちと彼女たちもまた「他人」だから。

私たちは、誰かの視点に自分を委ねるのでなく、情報をかき集めて、彼女たちの会話やテキストを冷静に分析し、氷川日菜とはなにかを一から組み立て解釈する必要があるだろう。

私たちはゼロから日菜を疑わなければならないだろう。


まず最初に、日菜は本当に「天才」なのか。

これに対する答えは既にある。否である。

それはなぜ言えるのか。そもそも「天才」とは何か。

端的にあらわせば、「天才」とはある結果に対する時に与えられる呼称である。何かを成し遂げた時の評価が、これである。紗夜の視点を参考にしよう。彼女は「日菜は何でもできる」と評す。ロゼリアバンスト12話をみてみよう。彼女はテストで「また」100点をとっているらしい。それが高評価ならば「天才」なのである。

しかしこれには落とし穴がある。この素晴らしい結果には、他の誰か、本人以外の「他人」、この場合判断基準があるわけだから何らかのシステムでも良いのだが、それによって判断されるわけだが、それは見方を変えれば相対的なものであるということだ。

紗夜からみた「天才」という「結果」は、彼女の自己卑下が関わる。また(学校のレベルという段階で憶測が混じってしまっているだろうが)、日菜の学校のテストで100点をとったという「天才」という「結果」は、テストの難しさがどれくらいか、周囲の学力レベルがどれくらいかで、容易に変わるだろう。

そんな中でも、到底真似できない「結果」を日菜は残している。ギターである。彼女はギュイーンと一発で弾きこなしてしまうのだから。これは「天才」以外には容易に出せない「結果」だろう。と。

しかし、ここにも穴がある。これは本当に「天才」だから導き出せる「結果」なのだろうか。

彼女は、昔から何でもできるらしい。姉のやることすべてすぐに追い越して行ったらしい。その「結果」は優秀なもので、確かに「天才」と思うかもしれない。

しかし、これはこうも言い換えられないだろうか。単に「器用」であるから、そういう「結果」を生み出してしまったのであると。

せこい理屈かもしれないが、一応、根拠を示そう。日菜は、紗夜がずっと日菜の行動によって傷ついてきたことからわかるように、紗夜をずっと無自覚に傷つけてきた。これは、同時に紗夜の「不器用」さを傷つけていたからではないだろうか。

紗夜はよく「努力」をする人であると評されるが、「天才」と「努力」というものは、対比するにはお門違いである。「天才」は「結果」であり、「努力」は「過程」であるから。「器用」さと「不器用」さ、という構図のほうが、日菜と紗夜の構図をあらわすのに相応しいのではないだろうか。

日菜は「天才」という言い方は相応しくない。「器用」である。

だから「不器用」な紗夜を無自覚に傷つけていた。


ここで、新しい疑問である。前述の「無自覚」という言葉に関連することである。日菜は、紗夜の顔を伺いながら、ずっと前見たく仲良くなりたいと思っていたにも関わらず、紗夜に冷たい行動をとっていた。またある時は、レッスンができない丸山彩に「どうしてできないの?」と発言する。


日菜は本当に「他人」の気持ちがわからなかったのか。

これは簡単だ。イエスである。

日菜の行動や言動から推測してみることにする。まず、日菜はよく擬音語を使い、しばしば周囲を混乱させる。これは日菜の言いたいことが、イメージが、世界が、伝わっていないから、言語を通して繋がっていないからである。彼女の「るんってきた!」は、私たち風に言えば「それはとても面白い」というごく単純な褒め言葉かもしれない。あるいは「今日は星が綺麗だ」ということを伝えたいのかもしれないし、「ザクっていう音が好きだから紅葉って好きなんだよね!」という思考なのかもしれない。しかし、日菜の表現はそうはならない。全部、日菜語で表現される。これは何を意味するか。それは他でもない、日菜が「他人」にその表現で伝わると思っているからである。

日菜は彩と会うまで、「他人」の面白さに気づかなかった、と話す。その前には、紗夜によく「人の気持ちになって考えなさい」と言われていたという。


ところで、ここまでで非常にわかるように、あるいは既に私たちが実感しているように、日菜は「他人」に翻弄されていた人間であることがわかるだろう。そこで日菜の動揺があるかは別として。

それは千聖も既に物語内で経験していることだ。『つぼみ開くとき』で、彼女はメンバーから誤解を受けていた。白鷺千聖は子役からのベテラン女優。だからなんでもできるはずだ。「千聖ちゃんならなんでもできるって思ってたよ」という日菜の言葉は、まさに千聖にとって日菜が千聖を翻弄する「他人」になった瞬間のいい例だ。

日菜の話に戻すと、日菜の「天才」という「結果」は、必ず誰かの判断基準がある。それを広義に「他人」と言うならば、それが彼女を翻弄するだろう。また日菜がずっとわからなかった「他人」は、言語を通して日菜とは繋がらない。日菜のことは、本人がどう思っていようが、誤解を誤解のまま伝えていく。それは人間ならば誰でも起こり得ることだが、日菜はそれに鈍感である。そしてメタ的に言えば、最初に述べたように私たちは日菜と「他人」としてしか接することしかできぅ、介入を許されない。




ここからは私の妄想と推測が入り混じるが、すると、日菜は「他人」がわからなかったように、「自分」もわからなかったのではないか。

そんな彼女を今までに繋ぎ止めてきたもの。それは紗夜と「双子」であることでないか。

「双子」は「一緒」。だから「おねーちゃんの真似をする」。

一緒に姉の好きな犬の番組をみようと誘う時の「あたしたちって双子じゃん?」というロゼリアバンストでの発言はそれを裏付けないか。

日菜は一緒に何かをし一心同体であるところの「双子」というアイデンティティが「自分」であるから、おねーちゃんが大好きであり、だから「他人」を知らなかった、別に知る必要もなかったと言えないだろうか。

皮肉なのは彼女の思っている「双子」も、私たちが検討してきたような「天才」と同じく、ステレオタイプな見解なことだろうか。





余談だが、今までに述べなかった、地図記号が読めない、美術室の匂いが好きなどの要素は、「天才」と呼ぶ時に判断する根拠に使われるだろう。私はこれはミスリードであると推測する。つまり、彼女が仮に「天才」だとしても(これに関しては否定したのだけれど、ある天才をみて天才と呼ぶ時)、なんら関係ないことである。先入観が私たちを邪魔しているだけなのだ。「結果」として血のにじむ努力をして掴んだら「天才」と呼ばれたり、「過程」として何もしていないのにヤマが当たって連続で100点を取り続けそれを黙り続けていたら「努力」と呼ばれたり。実態は逆であるにも関わらず。


余談その二。バンドリには本物の「天才」がいるだろう。瀬田薫である。

瀬田薫がなぜ天才か。それは彼女がすごい演技をする「結果」を残すことは勿論だが、儚い儚い言ってる変な人だからというのは根拠にならないことは、もうお分かりの通りだ。彼女が日菜と違い「器用」と片付けられない理由。それは、こころが指摘していたが、シェークスピアに対する「愛」……を利用した、寂しい心を埋めることである。言い換えればその「執着」である。この「執着」こそ、「天才」という「結果」を生み出すのである必要な条件である。逆に日菜はない。なぜならそもそも「自分」がないから、その「執着」する対象が、わからない。彼女はまるで自我の芽生えていない幼子だ。




ここまでの解釈で、石田麦さんのツイートを多大に参考にさせていただきました。

ノラと皇女と野良猫ハート覚書3

ヒロインルート以外でヒロイン以外の他のヒロインが結ばれなくて、それは本当にハッピーエンドと言えるのか、主人公の選択の幸福(=任意のヒロインルートのハッピーエンド)は他のヒロインの不幸を生み出すのではないかということは散々他で考えられてきたことだろうけど、未知ルートの明日原の不幸さが特に際立つのは、未知の気持ちの後押しを本人曰く「当たっちゃった」と後悔しながらしたこと、(明日原はあくまでお金をとって、ということだが、明日原ルートをみればわかるようにそれは口実であろうということが十分に推測できるであろう)「キスする相手をいっせーのでいう」という描写からも読み取れると思う。

ところで、明日原ルートでは、明日原は自分から告白をせず、むしろノラが積極的に「護ろう」という気持ちから交際を持ちかける展開になる。これは、共通ルートで告白の練習をしていた未知やそれに乗っかるパトリシアとは正反対で、捨て猫の経緯を経て、付き合うまでに至るに、明日原からのアプローチはない。「Like a cat」という称号がばっちり当てはまるように、彼女は一番拾われ護られる存在だったのかもしれない。シャチも明日原同様、ノラから告白された経緯を持つが、決定的なのは、シャチはそもそも最初からノラを家族と認識している。他ヒロインルートでも、それを祝福していて、見守ることができる立場をとる。彼女はノラの隣にいることができるのだ。

明日原は、明日原ルートで「護ってやらなきゃ」と猫の経験から思ったノラの気付きがないままに生きていかなければならない。ここで明日原の名前が「ユウキ」ということを思い出すと、彼女が他ヒロインルートで、誰も自分の気持ちに気づいてくれない、でもノラへの気持ちは抑えられない、お金がない、寂しい、でも風俗に流れる根気もない、となれば、彼女が感じられる一瞬の幸福の春の風は、「告白」と「ユウキ」がキーになってくるのではないかと思う。


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ノラと皇女と野良猫ハート覚書2

タバレ注意。


全ルートをクリアした。クリア順は未知→明日原→シャチ→パトリシア。

この四人の中で、シャチやパトリシアはおそらくノラと恋人とならなくても生きていけるだろう。シャチはノラと家族であるという認識があれば良いし、パトリシアは心音がならない=命がなければ冥界に帰ることができる。二人の生きる上での問題はそこなのだ。それが崩壊しなければ逞しく生きていけるのだ。他のキャラでのルートの協力の仕方と笑顔をみる限り。

後の二人、未知と明日原はおそらくそうはいかないのだろう。未知はそのうち親子揃って結婚詐欺にあってしまって勉強どころではなくなっていただろうし、明日原はノラへの想いを募らせたままノブチナや井田が言うようにいずれは風俗へ流れる勇気もないまま、残りの人生をただじっとみつめるように過ごしているかもしれない。

トリガーになるのはやはり主人公のノラだが(しかもどちらもノラのことが好きときた)、これはギャルゲーであり攻略対象というものが存在するので、どれかのルートにいけばどれかのルートを捨てることになる。そうすれば他のルートの可能性は捨てられることになる。久しい間この手のゲームをやっていなかったから、懐かしい気持ちになりながら胸を痛めた。ラノベでよくみたハーレムもので、誰かを選択しないという選択をするというのはこういうことかと腑に落ちた。

近日2が発売するらしいが、こういう場合、誰かのルートを正史として進むのだろうか。順当に行けばパトリシアだろうけど。

そうなった場合、どんな気持ちで明日原と未知は未来を迎えていくのだろうか。2のあらすじで、明日原は将来について考えるようになり、未知は短期留学しクイズ大会ですごい成績を出すと書いてあるが、どんな心境だろうか。

とにもかくにも、明日原と未知の百合がみたい。未知ルートでの明日原の未知への絡みっぷりや、タイトル画面の抱きつき具合をみる限り、よろしくやっていけるのだと思う。未知はあの日ノラネコを拾ってノラを救った。明日原は自分が野良の時、野良ネコを捨てて、自らも家を飛び出して、野良になったかと思えば帰ってきた。母親の元から離れたいけど離れられない、野良になれない未知。母親が離れて結果的に野良となった明日原。真逆のようで、しかしノラに執着するその姿勢はとても弱く、だからこそいがみ合いながらも寄り添っているのだろう。

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ノラと皇女と野良猫ハート覚書

・『ネ!コ!』

ネ!コ!の歌詞を聴いてると、私もネコを飼いたくなる。一人称(=ヒロインたちだろう)が、お金を貯めて時間を減らしてあなたのために人生ぶん投げている。ただ、一人称の圧倒的母性愛への屈服とそもそもそんなに金がねえという嘆きにつながる。ネコはかわいい。しかしネコをかわいいかわいい言ってもそれが「アイラビュー」に繋がるとは限らない。名もなきノラネコに名前を与えれば母性の仲介でそこに論理が結びついてくる。「お母さんからの宝物」を自分で持つためには、根気と経済力が必要だ。ネコって飼うと一生のうちに200万くらいかかるらしいよと知り合いが言っていたことを思い出す。名もなきノラネコを名もなきノラネコのまま呼ぶものたちは身を呈して「アイラビュー」と叫ぶしかない。だから私はノラネコをみつけると逃げられるとわかっていながら追いかける。

根気と経済力。私はネコを飼いたい気持ちはあるけど、経済力のほうは置いておいても、きっとネコを最後まで飼いきることができないのだろう、という予感がある。ところで、「今日からたのしいお風呂だ二人一緒に入れば恐くない!」でたのしい・恐くないって思ってるのは一人称だろうけど、この欲求がネコへ躊躇わずに人生ぶん投げることのできる活力になっていたのだろうか。一人称はひとりぼっちでは寂しかったのだろうか。と推測するならば、私は名前の見当たらないノラネコをみつける頻度でネコに「アイラビュー」が一番丁度いいのかな、と思う。




・ノラととVita

反田ノラはネコになると、文字どおり、ネコになるが、人間がネコのような仕草をするのではなく、ネコの身体に抗えずネコになっている。サカリであったりしょっちゅう寝ていたり。明日原に抱かれるときが一番落ち着く、という判断基準は、抱くのが上手いから、というネコの判断基準。ただここにもキャラ間の差があって、シャチや未知の時は胸胸胸胸と発情しまくっていた。

そういえば私はネコを抱くのが、人に笑われるほど超下手くそだ。そもそも適当な服に着替えないとネコを抱けない。結果手のひらだけで体重を支えることになる。ただし着替えたところでそれでも何度教えられてもうまく抱きかかえられない。無理な体勢を強いられるのでネコにとってはいい迷惑だろう。ネコが近寄ってきた時は極力撫でることにしている。

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TVアニメ ノラと皇女と野良猫ハートOP曲「ネ!コ!」

TVアニメ ノラと皇女と野良猫ハートOP曲「ネ!コ!」

ノラと皇女と野良猫ハート

ノラと皇女と野良猫ハート

バンドリ雑談

エミリ「こころちゃんって本当に神様みたいよね。誰かの話を否定せず、憶測で性格を判断せず、相手の言葉に素直に耳を傾けて、それを肯定してあげて、相手を笑顔にさせてあげようとする。なんてけなげな無償の愛のかしら……」

ユウ「思ったんだけど、こころを神様みたくしてるのって、『世界中を笑顔にしたい』って部分だけじゃないかな? そのほかの部分は結構誰でもできるっていうか、それは言い過ぎか。美咲がこころみたいな考え方できるわけじゃないし、それはあるいは個性とか特性っていうんだろうね」

エミリ「ユウはこころみたいな考え方できるの?」

ユウ「うーん、少なくとも『世界中を笑顔にしたい』っていうのは、無理。ぼくは自分のことで精一杯だし。そんなことより百合が見たい。けど、そんなこころの思想ではなく、こころの思考回路自体は、意外といけるんじゃないかな? って思ったり」

エミリ「……思い込みをなくすとか? 例えば、ラノベばっかり読んでる奴はオタクだとか」

ユウ「なんか雑なたとえだね……」

エミリ「いい例えが思い浮かばなかったのよ……」

ユウ「ただ、これらはそうでない人たちを排除してしまう。ハロハピのみんなは、美咲以外皆、そういう隔離感を抱えているんじゃないかなって思う。自分が言った言葉が、思っていることと、全然違う意味でとらえられる。薫さんなんて顕著だと思う。『儚い……』なんて、いきなり言われても面食らうしかないじゃん。どんなに優しい人でも、他人からすれば、本当の意味をくみ取ろうとするのはとても困難だ。そんなことしようとしたらみんな宇宙語喋ってるようにしか聞こえないんだよ。だって『儚い……』から何がわかるっていうの。薫さんが(言語情報以外を付け加えるならキメポーズして低音響かせながら)ああ儚いって言ってるなあってことくらいでしょ。美咲はこの宇宙人をみつめる他人側なんだね」

エミリ「え? じゃあこころちゃんは何をしてるの? 翻訳? 相手の心の翻訳をしているってこと? その人が発している言葉をそのまま崩さずに?」

ユウ「翻訳作業はしているだろうけど、それをこころは相手に、あなたはこういうことを言いたいのね、とは言ってないね。これは結構すごいことだと思う。面と向かって薫さんにあなたは臆病であるとは言ってないでしょ。で、こころは相手の言葉、他人からすれば宇宙語みたいなものをそのまま尊重して、会話を続ける。こころは驚くほど優しい人なんだなあって思う」

エミリ「……あれ? でも、こころは美咲にだけはなんかあなたをみてるととっても焦るみたいなこと言ってなかったかしら。あなたは心配性、って直接言ってたような」

ユウ「そこが、ハロハピ内の、こころに対する美咲とそれ以外の差で、惹かれている部分の差でもあるんじゃないかな。つまり、はぐみ、薫さん、花音は、こころの思考回路に惹かれていて、美咲はこころの思想に惹かれている。こころを一番神様みたいって思っているのは、美咲だってこと……って感じなのかな、ミシェここって。だから今回のイベント、ハロー、マイハッピーワールドなのかなって」

エミリ「……まだやってないのにね」

ユウ「だって、怖いじゃん……みんなこころこころって」

エミリ「……みんなこころちゃんに救われちゃえば世界中がハッピー? 巡り巡ってユウもハッピー?」

ユウ「別、別」

 

 

雑記

 AbemaTVで放送している、声優アニ雑談のカラオケ回で、松井恵理子の歌に興味をもち、またデレマスの神谷奈緒の歌も好きだったことから、松井恵理子のアルバム「にじようび。」を聴いた。アルバムの最後に収録されている『声』のサビで、自然と涙がこぼれた。咄嗟のことで混乱したが、振り返ってみると、私はこういう、現実に追い詰められ、切実さがこみ上げてくる、もう逃げ場所がなくなった結果がけっぷちで叫ぶように祈るような歌い方をしている歌がもともと好きだのだな、と思う。最近のアニソンだと藍井エイルとか、バンドリのポピパとか。
 かといって、歌声が好きだから泣いた、という単純なことでは、ないように感じている。「にじようび。」のアルバムは、一番最初の『ワスレモノ』から、強い自己卑下を繰り返す一人称像が垣間見える。おそらく私はその姿を(勝手にだけれど)、松井恵理子が各所各媒体で言われる言葉たちから松井恵理子自身と重ね合わせて、涙を流したのだろうと思う。要するに、アルバムから作成された松井恵理子の物語に泣いた。
 思えば、ポピパの曲に感動する時も、その物語が曲から浸透してきてくる瞬間が、身体中に伴うのだった。ポピパの曲は、ほぼすべての曲を、小説版原作の中村航が作詞しているので、ポピパの物語をもっと深く知りたいという人はぜひバンドリ小説版を読んでほしい。もちろん、アニメをみて、きらきら星の精神を学ぶのもよい。アプリを遊んで、壮大な百合と姉妹への執着に溢れた素晴らしい世界に触れるのもよい。
 藍井エイルに関しては現時点では本人のことは詳しくない。元々、小説でも漫画でもそうだけれど、作品を出した作者のことにあまり関心が湧かない。詳しく言えば、気に入った作品をつくった人としての作者、作品形成にあたってのルーツとか、方法は見るけれど、その他の作者の一面は、みたところで作品とは独立しているものだ、と捉えている。
 しかし、今回私が松井恵理子のアルバムで泣いた理由は、一転、作者と作品を強く結びつけることをしているのではないか。作品に自己投影し共感していたならまだしも。私は最初から物語を求めていたのだろうか。

 

 物語といえば、アイドルは物語性があるから魅力的だと、各所各媒体で散々言われていることだとは思うけれど、しかし、今のアイドル市場をみると、どこもクオリティがインフレしている。二次元ならアイドルマスター、三次元なら秋元康がわかりやすいと思う。八月頭、WUGのライブに参加したが、その時も完成度にびっくりした。と同時に、ここに物語の介入する余地があるのか? と思ってしまうのもまた事実だ。クオリティの高さが前提となり、露出の機会もそちらに割かれていくので、低いものは、物語を見られる機会が与えられない。だったら「低い場所から始めて物語を魅せる」という手段があると思ったが、それもいつまで続けられるのだろうか、という不安が残るのも事実だし、何よりこのクオリティインフレの中でそれをやり続けるには、演者のメンタル力とそれなりに健康を前提とした体力が前提とされるのだろう。芸能界に入るということは、やっていくとは、そういうことだと言われればそうかもしれないが、しかし、そのことが誰かの諦観を生むというのであれば、アイドルが夢を生み出すということこそ幻想におわってしまうのではないかとも思う。
 そういう意味で、アニメのWUGは、仙台が舞台であることとは別に、「アイドルは物語である」と丹下社長が言ったのは、本当に時代の流れに沿った言葉だったのだと思っている。声優さんたちのWUGとの繋がりも含め、アイドルファンの心をつかむ、よくできた流れだったのだろう。だから、秋から放送するWUG新章で、どのようなことを書いていくのだろうかと私は予想がつかめないでいる。今、あの作品で「アイドルは物語である」と言っても、説得力がないだろうと思う。声優さんたちのほうのWUGの、完成度の高いパフォーマンスを見てしまった私には。新しく加入することが決まった、RGRの動き次第にもなるのだろうか。
 あと余談だけど、アイドル事変のアニメも今じゃないとできないアニメだっただろうと思う。結局、あのアニメの中で、アイドル議員とは何か、私にはさっぱりわからなかった。あの手のアニメには、あらゆるアイドルの成功、あるいはアイドル個人の成功の歴史で築かれた、一種のアイドル信仰が働いているのだろう。「アイドルみたいに夢に憧れればなんでもできる人間になれる!」というメッセージ性。それが独り歩きしてできたとんちんかんなアニメだったという感想に尽きる。議員活動?をしていたかと思えば、途中で正気になって?真面目にアイドルのレッスンしだすので、アイドル事変のアイドルたち自身がアイドル信仰にかかっているのだと思う。今、この時代に見る価値があると思っているので、無理にとは言わないけれど、暇を持て余している人は見てほしい。これもどうでもいい話だが、バンドリアプリのポピパストーリーはアイドル事変っぽい。

 

 書いていて気付いたが、最近そういえば、ツイッターやラジオなどで舞台裏のことを赤裸々に語る人が増えたと思う。アイドルは清楚とか、声優がアイドル化してきた、というものから一転して暴露話があったりして、それが新鮮なうちはまだよかったけれど、旬が過ぎるのは早いもので、コンテンツを多く見ている人にはもうそれが新しいと言われるのは首をかしげるのかもしれないという懸念がある。しかし、これらが繰り返し行われることで、作者と作品との間に、視聴者は物語を見ることを強制されるように視線を固定されているのかもしれない。と思うと、確かに、感動を生むにあたっては、今、これが最も手っ取り早い手法になっているのかもしれない。ただ、もっと改善される余地があるのではないかという感想を抱いてしまうのも事実だ。

 

 閑話休題、この夏、ライブを見に行った。
 7/29、ロゼリア/有明コロシアム
 8/6、WUG4thツアー/仙台サンプラザホール。
 8/12・13、デレマス5th/SSA(LV)。
 8/21、バンドリポピパ4th/日本武道館(LV)。
 ロゼリアで初めてアニメのライブに行ったし、夏にこんなに予定を入れたのも初めてだし、元々身体が貧弱なので体力も限界だったし、過去にこんな無茶なスケジュールを組んだ軽率な過去の自分を恨んだりもしたが、そうでもしないと動かないだろう。
 繰り返しになってしまうが、クオリティのインフレをデレマスやWUGで強く実感し、バンドリでは低い場所からの物語であった。
 どれも楽しい思い出だったが、一方私はライブ鑑賞に向いていないとも思う。体力面もそうだが、ライブで盛り上がる、という連帯感が、ファンや演者と一致しない。サイリウムを振ったり、身体を動かしてリズムをとりながら、自分の動きを滑稽に笑っているような感覚が、不意に訪れてくる。そういう動きをしている自分が恥ずかしいから、というわけではなく、演者、観客、すべてを含めた会場が、一つの演出された舞台装置にみえることがある。懸命に没入するように私は観客を演じているのではないかと思うこともある。それを特に強く体験したのがデレマスのライブだった。私は速水奏が好きだが、「一人の速水奏が好きなファン・担当」として、懸命に演じていた。もちろん、私はデレマスの速水奏が偽りなく好きだ。全て演じていたというわけではないだろう。興奮した部分もあった。しかし、応援していたとか、盛り上がったとか、そういう起伏とは、どこか違ったような違和感を覚えた。このままライブに参加し続けるのは疲れるだろう、という判断だ。
 そういえば、機会があればAqours2ndツアーにも行こうかなと思ったけれど、ラブライブではもうたくさんレポートが上がるだろうと踏んでいるし、もっと詳しい人に任せたほうがいいと思うので見送った。
 

 

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ロゼリアのライブ雑記

  Roselia1stライブ追加公演に行った。アニメ系のライブに現地参加するのはこれが初めて。ライブビューイングには、ラブライブのファイナル2日目とデレマス4thSSA1日目を座りながらゆっくりみたことがある。基本的に体力がないので、昔からこのようなイベントは避けていた。一生行かなくてもいいかなと思ってたけど、ライブビューイングに行ったコンテンツに悉くハマった経験から、一度は何かに行っておきたいという気持になった。
 アニメ系のライブは、二次元では自分の身体で強烈な体験をするということができないから、三次元で演者と自分とが身体を使ってそういうことを意識させ、再び二次元に帰っていくのかな、とか思ってたけど、こういうことをうまく言うためには、きっともっと二次元アイドルアニメや声優ライブに詳しくないと言えないんだろうなという気もする。
 現地の空気を感じてしまうと、これから行く予定である、もうチケットを取った、デレマス5thSSAとバンドリ4thライブビューイングを私は楽しめるかなと心配になってきた。現地でサイリウムを振っていて実感したのは、気付くと他人のサイリウムの動きやリズムを見てしまっていて、演者の動きや演奏を見損ねてしまうことが度々あるなということ。私が気にしすぎなだけかもしれないけど。そんな中でそれなりに声援を送れたりサイリウムを振れたのは、目の前に演者がいて、手を振っている姿を肉眼で見れて、演者も自分たちの振っている光景をみているからだなとわかっているからだった。ライブビューイングでは演者と自分たち観客のそういった視線のやりとりはカメラの目によってあらかじめ遮断されている。じゃあ自分たち観客の声援を聞くのは誰? 全て自分たち観客に反射して返ってくる。この光景を楽しめるかどうかは、ライブに対する楽しみ方でしかないだろうと思う、つまり、ライブの後に友達や誰かと一緒になって盛り上がったり感動を分かち合いたいと思うか、そうでないか。
 内容に関しては、開演前のアナウンスでまた紗夜と湊さんがリサの手を借りて幼児退行に勤しんでいたし、OVA映像でもそうだったのでリサが過労で倒れる前にしっかり者のあこちゃんなんとかしてくれと祈っていたし、くどはるはやりたい放題だし、軍服衣装と熱色スターマインで涙は出るし、燐子と湊さんの絡みがすごくあって楽しかったし、ドラム聴いててめちゃくちゃ楽しかった。