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バンドリ雑記4

想定された視点からストーリーを読み、解釈することは、正しさが伴うが、逆が間違いというわけではない。勿論、想定された視点を持っていたほうが、そのストーリーの楽しみかたを熟知している、という時点では、想定された視点でストーリーをみるというのは、あるジャンルのストーリーを初めて読む際、とても重要なことになるだろう。

バンドリガルパがリリースされてから約一年。私も最初は想定された視点からストーリーを楽しんでいたが、そうでない視点へ、徐々に関心が移ろいでいる。バンドリガルパにおける想定された視点については、バンドリ雑記3にて書いた。つまり、バンドリガルパにおいて、キャラクターの視点に沿った描写が想定された視点であること、そしてその視点というのは非常に狭いこと(それがバンドリガルパのすぐれている点だ)、である。

私の関心が移ろう原因が、私の気質にあるのかまた別なのかはさておき、現在私は想定された視点ではないところから、バンドリガルパのストーリーを読んでいるので、当然、その解釈もあるわけだし、それに伴う感想もあるはずである。ブログを確認のために読み返したら、文章が非常に気持ち悪いと感じた。解釈だけ書いてあって、感想を書いていないことに気がついたから。そして、私が言いたい、発したくてたまらなかったのは、感想の部分であるにもかかわらず、それを抑えるかのように振る舞う、私の装いが気に入らなかった。

随分回りくどい前置きになってしまったが、これは私の個人的な納得の方法であり、それをどう言語化するか、悩んだ結果だからである。感想を書こうとして感想を抑えて感想を書かないってどういうことだ、と、ちゃんと書いておかないと、後で私自身も未来の私に過去の私でぶん殴れないからである。

で、肝心の感想部分であるが、私はバンドリガルパの構造はそんなに嫌いというわけではないけど、パスパレ2章が大嫌いだ。その理由を述べることに尽力する。



そもそも私はバンドリガルパの長所である「非常に狭い」価値観自体は苦手である。それは私のような想定された視点でない視点が制約される可能性があるからだし、そういうコミュニティにいがちだった、という個人的な経緯がある。これは経験的なことであり、私にとっても致し方ないことであると思っている。

しかし、パスパレ2章は、どうも説明を個人的経験とは片付けられない、非常に美しくない構造をしている。それは、パスパレ2章では、芸能界(それも現実世界寄りの、不条理が伴う世界)という場所に置かれながら、「努力で夢が叶うわけじゃない」の正反対にある「努力で夢は叶う」という理念としての象徴として描かれる「アイドル」を、そのまま語っている構図そのものに原因があると思う。


2章と限定したのにはわけがある。1章においては、「努力で夢が叶うとは限らない」と「努力で夢は叶う」は、千聖と彩というキャラクターを通じて、見事に対立し、千聖が彩に見せられる、という成長物語があったからである。しかし、2章になると、まるでその場所の時間だけが置き去りにされてしまったかのように、「努力で夢は叶う」が、ストーリー全体に充満している。千聖は「努力で夢は叶う」側へ行ってしまい、スタッフへ懇願する。何をか? 映画とアイドル合同ライブという、無茶なスケジュールをさせてもらえることを、である。

この千聖の行動は、あらゆるバンストを通して、「努力で夢は叶う」を信じ、夢をみてみたかったから、薫に助言をもらったから、と解釈すればなんら疑問は浮かばない。しかし、その前のスタッフの、千聖に対する対応は、千聖の体力を気遣って早めに送迎することであった。千聖はそのスケジュールを押した。なるほど、そもそもスタッフのスケジュール調整が無能なせいで、アイドル合同ライブの参加も突発的だったし、映画の仕事と被ってしまったのも、彼らに非があると言われるのも納得である。無計画さは目立つ。考えてみると、根本的な原因はやはり彼らかもしれない。しかし、それとこれとは話が別で、まず芸能人の体力を気遣うというのは、懸命な判断であっていいはずである。

芸能人の健康をとるか、未来をとるか、それはバンドリガルパ以外でも、各所芸能界の動きをみれば、各々判断が様々なことは容易にわかる。ファンの声や他イベント状況などで、調整が必要な時もある。

気に入らないのは、千聖がこの判断を下したのが、「努力で夢は叶う」というパスパレ内での同調圧力のようなものから生み出された選択肢であり、話のすり替えをしているだけになっているように見えるからである。

同調圧力という言葉を使ったのは、わけがある。解釈に関しては以前の記事を見てほしいが、パスパレがなくなると困るのは、特に日菜とイヴである。この二人は、居場所を失う不安からか、率先して他のメンバーを団結させようと動く。つまり、日菜は5話で彩に発破をかけ、イヴは7話で論点をすり替えパスパレがなくなることを想像つかない彩に巧みに想像させる。影響された彩の行動は、千聖にダイレクトに響く。千聖は彩の信念に魅せられてしまっているからだ。このような過程を経て、千聖の行動がある。麻弥も「アイドルがわからない」と言っていたように、自信がないから自分の意見が言いにくい(テキストに現れにくいのはこれが原因か)。

千聖の行動は、突き詰めれば、寂しさからくるわがままがもとであり、それを「夢」と還元するのは、非常に美しくなく、これまで綺麗に語られてきた「夢」に対して失礼なものだった。

全く別の作品だが、具体例を挙げてみる。ちょっと昔のアニメ作品で『プリティーリズム』シリーズというものがあった。シリーズの一つ『プリティーリズム・レインボーライブ』作中で「子どもを愛さない親はいない」という旨の発言があるが、これは現実世界では否であることは、様々なニュースを鑑みれば、わかるだろう。しかし、『プリティーリズム』シリーズという作品では、登場キャラクターの親子関係における確執を、綺麗に描いている。親に愛されているけれど、家に来たお友達は親がいない子だったり、親に過度の期待を持たされたち、親がストーリーの最初からいなくなってしまっていたり。キャラクターの親子関係は様々だが、一貫してこの作品は、親は子どもを愛するし、また子どもは親を愛している。そこにはなんら疑いもなく、そしていつか捨てられるのではないか、という類の不安もない。「子どもを愛さない親はいない」は成り立ち、いつしかそれをみる私たちにとって「子どもを愛さない親はいない」という言葉が、フィクションを超えて、救いとして響いてくる。

この話のような明瞭さは、パスパレ2章にはない。「目標」の反対の「夢」、「努力で夢は叶うとは限らない」の反対の「努力で夢は叶う」、これらが勧善懲悪として描かれるような話は、例えばプリキュアのようにある程度設定された年齢があって、「努力で夢が叶う」から出発する単純な世界構造でもない限り、物語構造として美しくなく、「夢」という単語を安売りしているだけのようである。


ここで少し話題を変えてみる。「夢」という単語を頻繁に使用するキャラクターは、丸山彩である。彩はずっとアイドルになりたかったと言っている。そしてパスパレでアイドルすることを叶えている。しかし、2章を読んで一つ疑問に思うことがあった。それは千聖との会話で、かつて彩があゆみさんにそうされたように、あゆみさんの言葉を反芻するような言い回しをしていたことだ。これは、見方を変えれば、あゆみさん、彩、千聖、という一つの夢の線が成り立っており、非常にドラマチックなシーンだ、とも言えるかもしれない。しかし先述のように「努力で夢は叶う」ところのパスパレは、日菜とイヴの影響が強く、彩だけのものではない。それどころか彩はパスパレという居場所に対しては受動的でさえありうる。

ここで唐突だが「運命」「試練」という言葉を用いて彩を説明してみようと思う。「運命」ー「試練」は、それぞれパスパレ2章ででてきた単語、「夢」ー「目標」に対応する。つまり、何かしら自分の職業に対し「運命」を感じ全てのことに意味を見出していくことが「夢」、周囲の出来事を偶然の集積と捉え「試練」を乗り越え得るのが「目標」、というように。

彩は、千聖が焦がれる「夢」側の人間であり、「努力で夢は叶う」と発し続ける信念の持ち主であるが、「夢」に対応した「運命」的態度の人間ではなく、「試練」的態度の人間ではないか?私はそう思うのである。

彩はMarmaladeの番組を見て、あゆみさんに憧れ、アイドルを志す。これだけみるならば彩にとってアイドルとは「運命」的な出会いである、と思うかもしれない。しかし彩の態度をみると、(あの無能の事務所に?)研究生生活を3年続けていたり、パスパレがなくなった自分のことを想像できない。これらの対応を、年相応、と言えば納得できなくはないが、では、このままでも彼女はファンに夢を与え続けられるのか?と聞かれたら、私はどこかで挫折してしまうのではないのか、あるいはパスパレで誰より一番早く、と危惧する。夢を与える、とは言うものの、結果的に夢を与える描写はあっても、彼女自身が夢に対する執着する心のありかたが、あまりみられないのだ。その代わりに「千聖みたく有名になりたい」という野心が垣間見えてくるのが、彼女の非常に面白いところではあるのだが、今回のパスパレ2章においては、「努力で夢は叶う」、「夢」を美化しすぎていて、そのアンバランスさも排除されている。「努力で夢は叶う」わけないけどそれを目指すことで燃えるのに、「努力で夢は叶う」と言い張ることでその言い分を叶えてしまい、挙句反対の「努力で夢が叶うとは限らない」(=スタッフ、千聖のもといた場所)を否定していく成敗話。一貫していないので、美しくないストーリーなのである。そしてバンドリガルパなので、非常に狭い見識の話でストーリーが進んでいく。息が苦しくなるのである。



一つ余談を。羽丘演劇部についてである。ここの構造も考えていくうちに、パスパレの中身と似ているのではないのかと思い至り、書き留めておく。パスパレ2章で薫出てきたし。

羽丘演劇部は、薫がいる間はシェイクスピアしかやらないらしい。演劇に関して色々調べると、これはなかなかすごいことだ、と思った。薫の影響力は、想像以上のものだったのだ。

演劇というのは、俳優、演出(全般)、観客、三つが揃って、お互い作用しながら完成するものである。私たちは、今、この三つの項目の外から、演劇部という枠を眺めている。なので(というのもおかしな話だけど)、一番目立ちがちな薫たち俳優に、焦点がいきがちなのも、まあ納得ではある。ところが、薫がいる間はシェイクスピアしかやらないという記述をみる限り、明らかに俳優中心として羽丘演劇部は動いている。薫、シェイクスピアの中身わかってないのに。そもそもオリジナルの戯曲書く人とか、いないのかな。そうか、薫ファンが多いから、なんの問題もないのか、それはそれで儚い、と。あと、シェイクスピアって、会話が中心だから、舞台美術は時代によって結構変えられるという記述をどこかで読んだ。めもっとけばよかった。

話は膨らむが、これが、部活が活発である花咲川で行おうとなれば、少し話は違うかもしれない。全国大会ともなれば、やはり技術的要素が求められてくるのだろう。審査員という外部の人間が入るのだから。そしてバンドリガルパではその存在はいらないから(…そう思うと、『つぼみ開く時』に出た宮川先生は、すごく奇異な存在だったなあと。最終的に、あの話もパスパレ仲よくてよかった、という方向に落ち着いたので、そういう話ではある)。羽丘演劇部は、今の情報から判断するに、薫のカリスマで成り立っている部活だろう。例えば、セットが演劇的にみてぐちゃぐちゃでも、音響がへたでも、薫の演技があればなんら問題ないのである。あと観客も子猫ちゃん(=ファン)だから。最も、麻弥がいるので、簡単にそんなヘマは起こさないとは思うが。綱渡りのようなチームワークで成り立っているすごい関係である。



バンドリ雑記3

 バンドリガルパで描かれる世界設定は非常に狭い。それがバンドリガルパのストーリーにおける魅力であり、長所でもあり、また私が常に読むうえで、なぜかバンドリに対して苦しみを覚える所以なのだろう。その魅力と、長所と、私の個人的な苦しみを述べたい。

 きっかけは、パスパレ2章を読んだことだ。パスパレ関連の話は、芸能界にまつわる話だと、常に思い続けていた。というのも、パスパレの関連するイベント(アプリ内の思い出のストーリーから、パスパレの項目を選んだ際に出てくるもの。2018年6月28日現時点では5つ)は、全てにおいて、アイドル活動の範囲内でストーリーが進められる。『あゆみ続けた道、彩られる未来』『つぼみ開く時』『パスパレ探検隊~無人島を征くアイドル~』『What a Wanderful Girl!』『譲れない想い、燃えるブシドー』の全てが、パスパレというアイドルユニットが、所属する事務所を通して、イベントに向けてレッスンをしたり、実際にイベント活動をする際の様子を描写する。芸能界という、選ばれた人物たちの様子を描いていくのだなと、そう思っていた。
 だが、パスパレ2章を読むと、どうも芸能界の話と言うには、本筋がずれている。勿論、メンバーが身を置いているのは間違いなく芸能界であり、ストーリーの舞台も芸能界であり、ストーリーのきっかけになったのも芸能界である。
5話で、事務所の方針により、個人の活躍が増えて、知名度を上げたいのならば、ソロ活動を中心になる、というのは、至極まっとうな決断である。自らが売れたいのならば、名を馳せたいのならば、野心があるのならば、そちらを決断するのが真っ当だろう。しかし、その話がメンバーに下された時、メンバーは困惑する。もちろん、急な話であるから、心の準備が伴わなかった、という解釈もあるが、しかし章全体を通して、また過去のイベントを通して、各キャラの心情を、推測することは可能だ。
 真っ先に、(パスパレの活動が)おやすみはいやだと声を上げたイヴは、外国からやってきて、モデル時代に一人きりだったこともあり、孤独を嫌っているから、パスパレという居場所がなくなることを恐れた。
 千聖は、個人で映画の仕事が舞い込んでくるが、即決できていない。1章時点では即決できたであろう彼女が、迷っている。パスパレ(とパスパレに所属している彩)という夢を与えてもらった場所、自分を変えてもらった場所を、捨てきれていない。だから、日菜に「パスパレがやりたいって感じじゃないじゃん」と言う時、否定しようとする。
 日菜に関しては、テキストだけみると、イヴと被る部分がある。4話で麻弥と一緒にレッスンへ行くときに「一人だと寂しいし」と発言する。しかし、環境においては、イヴのように日菜は周囲から孤立していたという描写は、特にない。容易に推測できることではあるが。例えば、ロゼリア1章で、テストまた1位か、つまんないの、とこぼしていたように、(自分と能力が釣り合わない=つまらない)周囲がいなくて寂しい、という風にも解釈できる。「あたしパスパレが好きだったんだけどなー」という5話での発言は、その寂しさが、失われてしまうことの、恐怖と共に、イヴとの相違点として、メンバー(主に対象は彩だが)に試すような口調で、終わっちゃうよ? と問いかけるのである。一番パスパレがなくなって困り果てるのは、おそらく日菜だろうということに、日菜自身が気が付いていない(ちなみに、私の日菜に関する散見は、以前書いたバンドリ雑記2をみていただきたい)。
 よくわからないのは彩と麻弥である。正確に言うならば、彩は選択肢が狭く、麻弥は描写がない。
 まず、彩について。パスパレを抜けても、アイドル活動は別に続くのである。しかし彩は7話、イヴとの会話で「スタッフさんの言葉を聞いてから、ずっと考えてる。パスパレがなくなったらどうなるのかなって。けど、想像つかないや」と言う。孤独を嫌うイヴとは、話がかみ合わない。イヴはパスパレがなくなってほしくないから「パスパレがなくなってほしいのですか?」と彩を責める。彩にとっては別になくなってほしいわけではないし、なくなったら損しかないからである。彩は彩で研究生生活が長く、やっと見つけたアイドル活動できる居場所である。Marmaladeがどういう経緯で解散し、引退を表明したのかは定かではないが、彩にとって、あゆみさんの所属していたそのユニットが、彩の中のアイドルの世界だったのだろう。パスパレがなくなってしまったら、自分はアイドルを続けられていけるだろうか? 大きな不安だったに違いない。しかし「想像つかないや」は、よく言えば、彩を彩らしくしている言葉である。
 次に麻弥だが、彼女は11話の独白や日菜への心情吐露まで、状況説明や行動に徹され、彼女自身の意図というのは読みにくい。過去のイベントでも、言語化装置として機能しやすい麻弥。だからこそ、今回の独白は、彼女自身の気持ちを読み汲むうえで重要な要素なのだが、しかし、これはあくまで麻弥自身がアイドル像として悩んでいる、自信を持てていない、そんな独白なので、パスパレが休止するかもしれないという時にどんな心境だったか、というのははっきりとはわからない。しかし「わからないことがわからないようになる」「わからないことっておもしろい」というのが日菜にとってのパスパレである、という時、麻弥は落涙する。ここで推測できるのは、麻弥にとって、そもそもパスパレに所属することが不安であるので(加入した経緯が一人だけ特殊である。アイドルという像からも、麻弥という私から見れば、遠く見えてしまうだろう)、日菜のわからなくてもいてもいい、というのは、母親のゆりかごのようなささやきだったのではないか、ということだ。
 最終的に、パスパレは5人で活動することを選ぶ。それは上述したような、自分たちの意志に基づいている。しかし、その行動を、彼女たちは「努力すれば夢は叶う」という原理に従って遂行していく。それは千聖が夢見た夢であり、5人で活動させてほしいと伝えた結果でもある。
 そして、この「努力すれば夢は叶う」というのは、現実に即した場合、芸能界では決してありえないことである。千聖が1章で提示した「努力で夢がかなうとは限らない」が、圧倒的に正しいのである。

 しかし、そんなことを指摘しても、バンドリガルパでは非生産的である。「努力で夢は叶う」というヒューマンストーリーを、「努力で夢がかなうわけじゃない」芸能界という舞台で、ちぐはぐにやっても成り立たせる、これはひとえに、スタッフ側や時には視聴者もそうであろうファンを無能厄介として描き、勧善懲悪のような世界があるからこそである。描写の取捨選択が非常に上手いのだ。意図的に視点を狭め、視聴者をキャラクターの傍に潜り寄らせ、キャラクターのみている世界を体感させるのだ。これが、バンドリガルパの魅力であり、長所なのだろう。

 (芸能界という世界が「努力で夢は叶う」という原理に基づくようにする、という二次元アイドル作品は、多くみられる。わかりやすいのはアイカツである。アイカツの原理は、キャラクターはもちろん、スタッフ側やそのほかの登場人物のモラルも一貫して「努力で夢は叶う」という夢を魅せる美しい構成となっている)
 個人的な苦しみは、つらつらとパスパレ2章のキャラ分析を試みていたように、私はおそらく、想定された視点からバンドリガルパを読んでいない。理由はさまざま挙げられる。長いことバンドリガルパに慣れ親しみ、キャラの行動原理がある程度わかったので視点を変えてみたとか、楽しみ方がそもそも想定されていない趣味だったとか。バンドリ二次創作で、よくキャラの両親や、その背景を考えるが、そういうことは、本来、バンドリガルパという世界観においては、いらないことなのだ。だから、テキストを読んでいると、どうしても私の中で、齟齬が生じるのだ。でも趣味だから続ける。あと楽しいし。

 

メルヘン・メドヘン(7話まで) 雑記

メルヘンメドヘンアニメ7話をみて大笑いして、後世のクソさに腹が立って、ゆっくり眠って、今日メルヘンメドヘンOPを聴いたら、泣いてしまった。葉月が勇気を出して物語を手に入れるまで、美しい旋律と歌声で、神々しく想像されてしまう。特にDメロは、葉月の持つ原書、シンデレラをなぞったもので、素晴らしい。鍵村葉月のための曲として、素晴らしい。

悔しいので、メドヘンアニメのクソさを語る。本当は原作全部読んでアニメ終わってからの方がまとまるんだろうけど、忘れちゃうから。焦点は葉月が自分の物語を綴ったアニメ6話までに絞った。あそこは一つの山場だし。原作読むのまだ追いついてないから、比較に関しては途中になってしまうけど、それでもメモには十分だと思う。

6話までの大まかな流れは、強力なシンデレラの原書を手にした主人公鍵村葉月が、魔法が使える世界で縁あって土御門静と出会い、自分だけの物語を手に入れる。葉月は物語症候群と自らが名付けた行動をしばしばとる。緊張したりすると本を読んで物語の世界に耽る、という。そのせいか、彼女にはしばしば妄想癖がえある。

葉月の周辺にいるキャラクター配置、特に家族は、シンデレラを意識されていると容易に推測できるものだ。実母と死別し、再婚を経て義母と義姉ができる。葉月は気まずい思いをしている、という。最終的にその気まずさは自分の内向的性格が原因であることに気づく。シンデレラの配置はフェイクであり、また見方を変えると寓話的である。葉月は、シンデレラの物語はあんまり好きじゃない。シンデレラの中にシンデレラがいないみたいだから、という感想を原作では述べていたけれど、それを自分のものにした瞬間、葉月はシンデレラの原書を発動できた。

こう考えると、原作はとてもオーソドックスな話で、ここに書いていること以外にも魅力的なキャラクターが主に葉月を通して描かれており、面白いと感じるのだけれど、アニメは面白い面白くないというより、とんちんかんという印象だ。で、これは多分、原作かたアニメにする際に必須な「どこを切り取るか」「どこにどうやったオリジナル展開を入れるか」という取捨選択をミスっているのだろうと思う。

葉月が自分の物語をみつけるという話と、シンデレラの原書を持っているという事実、そしてシンデレラ的な配置がなされている寓話のような構図、これらをアニメではどうしたかというと、寓話的構図を取っ払い、静との絡みを増やした。1話は顕著で、シンデレラの原書は、原作では「(死んでしまった)お母さんのドレスの中になんかあった変なやつ」だったのが、アニメではその部分はカットされ「学校で物語症候群を発動した後、本屋に行って本をめちゃくちゃ買い(ちなみに原作ではここは単行本一巻であった)、その中に紛れ込んでいた」というものである。静との出会いも、アニメでは運命的に描かれているように思う。原作では「いつの間にか間違えてカバンに入れてしまった、なぜか開かない原書に落胆していると、周囲がぶつかっても気づいていないような少女がいる、あれ魔法じゃね?とわくわくしながら追いかける」アニメでは「紛れてた本の中にあった原書を奪ってくようにして物を持ち去る。葉月は追いかける。魔法じゃね?とテンションあがる」。静が置いていくものも違ってくる。告白するシーンは一緒だ。

あと、アニメで大幅に脚色された点は、「葉月が静の名前を知りたがる」ということだ。それがわかるのは魔法ステッキの部分。原作では既に名乗られているので、茶化して終わるのだが、アニメでは、静ちゃんっていうんだ!と感動するのだ。そしてファストフード店で、お互いの絆を確認し合うように、名前を呼び合う。

素晴らしい百合である。天才である。

しかし、本編の軸からは外れているのだ。

六話で、シンデレラの物語を受け入れるのではなく、私なりのシンデレラを綴る、この結論を、綺麗に導くためには、やはり寓話の構図は外せなかったのではないか。

義母と義姉が、葉月をパーティに誘う時に身につけるドレスは葉月の実母のものであったが、アニメでそれに関する詳しい描写はなく、些か急で、不自然だった。

静との百合描写が増えることは嬉しいに限る。しかし、それにより、寓話的構図が減って、中途半端にその名残が残って、チグハグな印象しか与えず、トドメの7話で葉月は対静さん特化百合キャラという奇妙な立ち位置になっている。



原作付きアニメというのは取捨選択の段階で面白さが決まると言っても過言ではないのだろうか。で、中でもライトノベル原作は、その傾向が顕著ではないかと思う。キャラクターの多さと、モチーフ、その使い方、それらと主人公の物語との関連。難しいのは、文字媒体であるからこそ描ける映像もあるということを忘れてはならないことだろうか。漫画やソシャゲ、ゲームだと、映像を画面に適用しやすいが、ライトノベルは、台詞をそのまま台詞として会話させても、その間にある、特定の一人称や三人称の空間を、どう画面に落とし込むか、どう会話のテンポに取り入れていくか、そういうことも大切なのかなとも思う。



話は逸れるけど、ちょくちょく「この作品はまるで1本の映画のようでおもしろい」という感想をみかける。小説、アニメ、漫画、媒体を問わずだ。とてもおもしろいと思うし、ライトノベル原作アニメをつくるうえで参考になる感想になるのかなと感じた。

この感想の中にあるのは、前述の、会話の間ではないかと推測する。それを演出なり作画なり演技なりあるいは会話の飛び具合なりで示されるものなのではないか。そして、そこで生み出されるのは、会話に参加しているキャラクターや、そこに関係する人たち、物、動物、または歴史とか、あらゆるものを、想像することなのだろうと思う。創作という文化はそういうところから生まれていくのかなと想いを馳せる。


というわけでメルヘンメドヘンOPを聴いてほしい。原作、アニメを通して、鍵村葉月の物語を垣間見てほしい。

SideMライブ雑記

 2/3、幕張、アイドルマスターSideMのライブに行った。
 アイドルマスターというコンテンツにハマってから、いつの間にか長い月日が経っていた。その中で、実際にライブの現場に行ったことはなかった。体調が優れなくなることへの懸念が一番、人混みを避けたい気持ちが少し。半年前ほど、ついにライブに初めて行った。それは今思えば、体調が前よりずっと良くなって身体が軽くなったこと、それの反動か無謀心が増して、見知らぬ他人がいる人混みに飛び込めるようになったこと、その他、色々な要因が重なった結果だった。今回、SideMのライブに参加できたのは友人が誘ってくれたからであるけれど、勿論それを断ることもできたわけだったのだ。
 運よく、アリーナの最前ブロックに座ることができて、演者のパフォーマンスをダイレクトに感じることができた。少し前に、違うライブで、アリーナの最前ブロックでみることができた機会があったが、その時や今回思ったことは、当然のことだが、ライブビューイングというカメラを通して映されたもの以外の風景を目の当たりにできることで、それはライブビューイング、現地、全く別物だということだ。
 会場にたどり着き、着席して開演を待っている間、ステージをみると、照明が星の形をして、ライトアップを待っていた。「星のようにそれぞれの色でいい」とアニメのOPで流れ、またDRAMATIC STARSがずっと星について語り続け、そんなSideMの物語が会場のその一部から現れているのを感じられて、終盤、星のカードが降ってきたり、ユニット曲のトップバッターがSTARLIGHT CELEBRATE!でシメがARRIVE TO STAR。それを肉眼で、自分で気づきを得られるのは、ここでしか味わえないのだな、と強く実感したのだった。
 そしてライブビューイングや映像で感じられていなかったものは、演者の存在だった。演出で、よく、ライブをみて衝撃を受けてアイドルを始める、という展開になるような感動的なものはあるが、あれはアイドルのパフォーマンスに圧倒されたのでなく、オーラを感じたのでもなく(勿論そういうこともあるだろうし、私が遠回りしているだけかもしれないけど)、自分より特別な何かがある、自分より先に進んでいる、期待感や嫉妬を現している面もあるかもしれない、と思ったのだった。私はよくみるあのシーン、わからなくて、その瞬間にみた人が自分の憧れになるとはどういうことだろうとずっと言葉にできないでいたけれど、そうすると、才能を渇望して努力するきっかけになるとか、そういう気持も芽生えるのかと、非常に納得した。そういう存在が、目の前にいる。画面越しでなく、誰かとの話題でなく、本物が、本人が。
 このことを、私はライブに行って、実感するまで、理解できない想像力のなさに呆れたが、昔より身体を壊さなくなってきて、こんな風にライブにも行くことができて(それでも友人のように突発的に高速バス0泊3日でライブに参加とかは体力的に無理だけど)、想像力を鍛えられる幅が大きく広がったと捉えられれば、今回のライブは、とってもいいものだったな、と締めることができると感じられる。

 ライブの内容のことに関しては、触れるとキリがない。Jupiterがアリギルを歌った時は衝撃的でずっと固まっていた。

雑談

ユウ「雪が降った!!!!洗濯機のニップルが凍結して壊れた!!!!!今週の月曜日に降った雪で作られた近所の雪だるまがいまだに解けずに生きているよ!!!雪だよエミリ!!!!やったねわーい!!!ボクたちも雪だるまつくーろー!!!!ドアを開けてーーーー!!!!!」


エミリ「雪くらいでしゃがないの。子供ね。それより雪かき手伝いなさい。というかあなた、雪がさらっさらで雪が固まらなくて雪だるま作れないって、この前嘆いてたじゃない」


ユウ「それはそれ、これはこれ!一面真っ白っていう非日常感がワクワクするんだよね!!ボクの家には暖房器具がコタツしかなく、常に吐く息が白いんだ!!めっちゃ寒い!!けどなんだか幻想的でいいよね!」


エミリ「はいはい。風邪引かないようにね。インフルエンザも流行ってるんだから」


ユウ「暖房は今からつけるのも面倒だしさ、で着込んだり布団に潜ればなんとかなるから、どうにか暖かくならないかと考えた結果、手を出したのが、鍋なんだよ!そう!話は変わるんだけど、ボク、最近鍋にハマってるんだ!」


エミリ「へー、鍋ね。いいんじゃない?冬にはぴったりね。ユウも考えてるんじゃない」


ユウ「……というのは建前で、コンビニに寄りすぎてお金がどんどん減ってっちゃうし寄れば寄るだけ余計にお菓子を買ってしまうから節約のためというのが一番の本音なんだ」


エミリ「どうりで最近昼休みにコンビニパンばっかり食べてると思った」


ユウ「言ってよ!!!」


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ユウ「見てよ、これがボクが作った鍋だ」


エミリ「キャベツしかみえないわ」


ユウ「わかりにくいよね。でも味は美味いんだよ。スープは『塩バター』。素をぶっこんで、肉、キャベツ、じゃがいも、えのき、だったかな、そこらへんをぶっこんで煮込んで完成!!」


エミリ「これ雑炊が絶対に美味しいわよね」


ユウ「そう!エミリは鋭い!」


エミリ「料理に関する知識があなたよりあるだけよ」


ユウ「残ったスープにご飯を入れて粉チーズを入れて雑炊にする!これがこの鍋の真の姿といっても過言じゃない!」


エミリ「あー、美味しそう……」


ユウ「ただしこの後鍋を焦がしました」


エミリ「チーズは焦がすわよ。ていうか雑炊のまま温めたの?!」


ユウ「いやーめんどくさくて」


エミリ「身体壊さなくて本当に良かったわね……」


ユウ「臭が酷くて頭痛くて死ぬかと思ったけどね……まあ生きてるから大丈夫だよ!この後も、鍋のシロップ?鍋キューブみたいな素を使って、キムチ鍋を作ったんだ。写真は撮り忘れちゃったんだけど、二回作って一週間くらい食べ続けたね。今回はキムチ鍋用のカット野菜と肉、2回目は肉の代わりにソーセージを入れたよ。ボク、辛いの苦手なんだけど、寒いと心地いいんだね。ご飯もすすんだよ!」


エミリ「どうりで最近ふっくらしてきたと思ったわ」


ユウ「…………マジ?」


エミリ「冗談よ」


ユウ「酷いよ!!」


エミリ「鍋かー。私もしばらく食べてないわね」


ユウ「じゃあ今度一緒に鍋やろうよ!鍋やりながらアニメみようよ!」


エミリ「それもいいわね。なにみる?」


ユウ「そうだな、いま放送しているゆるキャン△スロウスタートメルヘンメドヘンとかみながら……今回は女の子がたくさん出てくるアニメがたくさんあるからいいよね……」




後日


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ユウ・エミリ「「出来た!」」


エミリ「担々餃子鍋ね。今回は担々ごま鍋スープに、肉、白菜、ネギ、しめじ、餃子を入れたわ。好みで白菜の代わりにキャベツやチンゲン菜、ニラ、ひき肉、シメにはラーメンって手もアリね」


ユウ「冬のキャンプ、行ってみたかったけど。予定が合わないんじゃ、しょうがないよね」


エミリ「学業があるし、私は習い事があるし、ユウは部活があるし。頑張ってみたけど難しかったわね」


ユウ「だからせめて!ゆるキャンの気持ちになろうと!」


エミリ「だからって、暖房のないユウの家で、寒さまで再現しなくたっていいじゃない……」


ユウ「それはほら、夏にさ、冷房効かせた中で布団かぶるのと一緒だよ」


エミリ「一緒……なの?」






エミリ「美味しかったー。しかし10分以上台所に立ちたくないとか前に言ってたあなたが、まさか鍋を作るなんてね」


ユウ「ボクは量食べちゃうから、やっぱりこの方が安上がりなんじゃないかって思うんだよね。ほら、一人暮らしで、仕送りで色々やりくりしなきゃいけないからさ。グッズもイベントも行きたいし」


エミリ「高校生で一人暮らしってのも珍しいと思うけど。実家から高校に通うのが難しいからって」


ユウ「ボクの知り合いもやってたから大丈夫だよ!」


エミリ「何がよ」





ユウ「久しぶりに料理してて気づいたんだけど、ボク、料理は昔から面倒で、だからいやだったんだ。で、なんでかっていうと、工程をいちいち分割してたんだ」


エミリ「分割?細かく分けている?」


ユウ「今回の担々餃子鍋を例にするね。全体像だと、完成が『鍋』でしょ。その間の過程の大雑把な括りは『野菜を切る』『具材を煮込む』。ここから分割して『野菜を切る』は『白菜を切る』『ネギを切る』『スープを鍋に入れる』『まず肉を入れる』『そのほかを入れる』『煮込む』みたいになる。そこからさらに分割して、例えば『白菜はどの大きさにするか』『ネギはナナメに切るか』とか『具材の煮込む順番は?』とか」


エミリ「考えてること、多いわね」


ユウ「慣れてるとさ、だいたいこれくらいってわかるじゃん。ボクはそもそもエミリみたいにお母さんもお手伝いを頻繁にしていて、料理スキルがあるわけでもないから、単に戸惑ったんだと思うんだ。小学生の時を思い出すな。じゃがいもの皮むきに1時間かけたこと」


エミリ「……さすがに時間かけすぎじゃないかしら?」


ユウ「そもそもボクが不器用なのはご愛好だとして、でも、それでも慣れない、というか、分割思考のままでいる人っていうのは、一定数いるんじゃないかなって。で、この慣れっていうのは、『鍋』って完成形を常に見据えて過程をそれほど気にしないことだと思ってて、慣れない人っていうのは、全体像がみれないんだと思うんだよ」


エミリ「細かいところが気になっちゃう、と」


ユウ「っていうのを氷川姉妹のことを考えながら考えてたよ」


エミリ「日菜ちゃんはそもそも最初から全体型で、だからこそ『完成すればいいのだ』という結論になり、鍋自体はできてるしスピードすごく早いけど具材ぐっちゃぐちゃ、みたいなことにはなってそうね」


ユウ「紗夜は過程型で、まあお菓子イベントをみればそれは顕著なんだけど、作業を徹底的に分割してキャパオーバーになるタイプだよね。制限時間があったら確実に引っかかってくる」


エミリ「でもどちらの料理を食べたいかといえば……」


ユウ「紗夜だね」


エミリ「紗夜ちゃんよね……」


ユウ「レシピ通りに作ってくれるからね。料理に限った結論ではあるんだけど」


エミリ「日菜ちゃんは楽器店のエリア会話で、確か、千聖ちゃんに、待ち合わせギリギリの時刻に来たことを注意された時、でも間に合ったからいいじゃん?って言ってたのよね。結果的に間に合えばいい(その後の本命の用事はそれから始まるのだから)、だから間に合ったからいいじゃん?と」


ユウ「紗夜と日菜がすれ違っていたのって、性格が難儀だったからっていうより、思考パターンが真逆だったからなのかな?で、それをお互いに自分の思考も相手の思考も自覚してなくて、理解をしていなかったから、と」


エミリ「……わかってても、それがどうしたの?理解しあえたら話が進むの?って言われたら、閉口するしかないのかしら」


ユウ「理解を超えた巨大感情が、氷川姉妹の不和だった原因で性格難であるところなら、巨大感情ってなんだろう?あれ?そもそも感情ってなんだっけ?って、最近考えちゃう」


エミリ「あまり難しく考えすぎないで餃子食べましょう」


ユウ「餃子美味え!!!!」


エミリ「それが感情の一つ?」


ユウ「もうそれでいいよ!!だってこんなに美味しいんだもん!!!!」


エミリ「投げやりね……」



つうかあ雑記

サイドカーレースという「二人じゃないと走れない」競技で、マシンに搭乗する二人の関係がいかに重要か、またどんな関係があるか、という話は、いわゆるお当番回で、鈴鹿、筑波、茂木に焦点が当てられ、視聴者たちは知ることができた。残りの生駒、多可女、天ヶ瀬も、解説・実況やコメディ描写など、濃度の差はあれ、間接的ではあるけど、わかることと思う。

そんな中、三宅島TTというレースの主役に抜擢されているのが、三宅島がホームグラウンドである三宅女子ペアである。彼女たちは、三宅島の練習期間に衝突し成長した他のペアとは違い、既に二人で完成されているペアである。各ペアお当番回で、それぞれ助言をしているのも印象的だろう。

彼女たちの間には、物語が、話を進められる要素が、鈴鹿で言えば信頼、筑波で言えば主従、茂木で言えば自我というようなものは、すべてクリアされている。

彼女たちの間にあったのは、棚橋コーチという他人だった。それが彼女たちを結果的に勝利に導いた要素であり、また、お当番回がなく、三宅女子と同じように、特別な物語を生む要素を必要としなかった、生駒や天ヶ瀬との決定的な差だったのだろう。

棚橋コーチという「私たち」の外にある人のことを想って、「私は私の世界で勝利する」という決意を固める三宅女子。しかし、肝心のコーチは他の女、しかもよりによってマン島TT覇者の片割れと婚約したとかほざきだし、レースの目的を見失う。しかし最終回をみればわかるように、コーチに会うまでは「好きだから」という理由で乗っていたことを、お互いに確認しあい、レースに再び挑む。結局コーチは振られ、三宅女子の二人は懲りずに諦めず、「私は私の世界で勝利する」と締めくくる。

「私は私の世界で勝利する」。この言葉は言い換えると「今は迷っていても仕方ないから、とりあえず今みえる目の前の道を進んで結果を勝ち取れ(そうすれば今感じている迷いが晴れるかもしれないし、晴れなくても勝利という栄光が待っている)」と取れるのではないかと考える。考えれば考えるほど、三宅女子ほどこの言葉があうペアはいない、いや、三宅女子だからこそ言えた言葉なのだろう。

その理由は三宅女子が三宅島をホームグラウンドにしていることからもわかる。4話での筑波との争いや、最終回でわかるように、三宅女子は「三宅島のコースを知り尽くしているからレースに勝てた」のである。これは大きなハンデでもあるし、また、コースを知り尽くしていれば「(走る)道がみえる」。これは他のペアにはない大きな特徴だ。

だからこそ、三宅女子が走れなくなる理由は、二人の気持ち一つで左右されていく。「道がみえる」のに、走れない。手段はあるが、目的はない。コーチという目標がいなくなった時の三宅女子の迷いっぷりは、それをよくあらわしているだろう。



こうして考えてみると、三宅女子が主人公だというのも、面白い。サイドカーレースというスポーツ要素、そして百合、となったら、レースに憧れを抱いて内面でいざこざがあって結果最終回で三宅女子と張り合うまでに強かった鈴鹿を主人公にしたほうが、わかりやすく面白くなったのではないかとも思う。最後の最後で負ける展開になったにしろ、三宅女子という最大のライバル、という構図にすれば、コーチという他人を出さないものになったのではないかとも思う。

しかし、つうかあはそうじゃなかった。三宅女子が主人公で、棚橋コーチという好きな人を巡って争い、その目標を見失うけど、自分たちがどうしてレースをしているのか自問自答し、好きだったからということを思い出し、「私は私の世界で勝利する」と前進し、その結果、宮田ゆり曰くあの女に振られた棚橋コーチを、二人でまた追いかける。三宅女子の二人の間にある物語は最初から完結して(敢えて言うなら三宅女子の物語のスタート地点はマン島TTだろう。コーチがそこにいて、ホームではない三宅島で、どう戦うか、テーマが盛りだくさんだ)、他人が介入していく、しかもそれが男であるという事実。つうかあは「同じ男が好きって百合なんだよな」を全力で描ききった素晴らしいアニメだったと思う。


余談だけど、最終回で宮田ゆりの魅力を知った人がたくさんいた。前から宮田ゆりのことが好きだった私にとってはとても嬉しいことだ。ぜひ周回して、宮田ゆりの一挙一動に注目してほしい。彼女の我が儘で利己的で狭量なところが会話の隅々に転がっている。私のイチオシは、4話でお菓子の話で揉めていたのにいきなりランドセル壊したことを持ち出して怒ったこと、8話のクソガキ時代である。クソガキ時代の宮田ゆりは、「気の強い母親としょっちゅう喧嘩していて、同じくしょっちゅう夜中に家を出て、騒ぎを聞いためぐみの母親が、気を利かせてめぐみに声をかけて、ゆりの元へ行かせて彼女に慰めてもらっている。めぐみはいつものことかとゆりの元へ駆けつける。そしてゆりはそんなめぐみの母親の、大人な気遣いに惚れる。めぐみにはいつも感謝している」という顔をしているので、必見だ。


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バンドリ覚書2

氷川日菜という人間をどう解釈するか。私たちはバンドリを遊ぶうえで、プレイヤーという立場から、あるいは任意のキャラの立場から、彼女を間接的にしか理解することしかできない。なぜなら、ゲーム内で、彼女は徹底的に、語り手から断絶された「他人」として描かれているからだ(余談だが弦巻こころや花園たえも該当するだろう)。(…)内でキャラの気持ちが直接伝わらず、一人称として語られない。そのキャラ(市ヶ谷有咲や白鷺千聖、氷川紗夜などが多い。水着イベでは白金燐子が該当するであろう)からみた、断絶された「他人」である氷川日菜という人物の解釈は、私たちを混乱させる要因であり、氷川日菜のことを全く誤解させている。


私たち視聴者、つまりバンドリプレイヤーであるが、それと語り手であるキャラや視点が、日菜を見つめたとき、真っ先に判断する彼女の解釈に該当する言葉は「天才」である。

判断材料はなにか?

なんでもすぐにできる。努力を知らない。擬音語を用いて表現を試みる。美術室の匂いが好き。地図記号が読めない。行動が突飛な変人。人の気持ちがわからないような言動。様々だ。

私たちはキャラの目を通してこれらを知ることができる。例えば。

氷川紗夜は妹である彼女を私とは違って「天才」と評し、自分を卑下する。白鷺千聖は努力を前衛としているが「あなたは天才だからなんでもできるだろうけど」と、日菜を天才であることを前提とし、また自分とは別の人間として分析する。

私たちはある視点からこれらを知ることができる。例えば。

『パスパレ探検隊』で、日菜の行動にメンバーが驚きはしなかったものの疑問は抱かなかった。

私たちは彼女たちの世界観を、無邪気に信じることが、氷川日菜の解釈なのだろうか?いや、それはない。そこには全く論理が結びつかない。私たちと彼女たちもまた「他人」だから。

私たちは、誰かの視点に自分を委ねるのでなく、情報をかき集めて、彼女たちの会話やテキストを冷静に分析し、氷川日菜とはなにかを一から組み立て解釈する必要があるだろう。

私たちはゼロから日菜を疑わなければならないだろう。


まず最初に、日菜は本当に「天才」なのか。

これに対する答えは既にある。否である。

それはなぜ言えるのか。そもそも「天才」とは何か。

端的にあらわせば、「天才」とはある結果に対する時に与えられる呼称である。何かを成し遂げた時の評価が、これである。紗夜の視点を参考にしよう。彼女は「日菜は何でもできる」と評す。ロゼリアバンスト12話をみてみよう。彼女はテストで「また」100点をとっているらしい。それが高評価ならば「天才」なのである。

しかしこれには落とし穴がある。この素晴らしい結果には、他の誰か、本人以外の「他人」、この場合判断基準があるわけだから何らかのシステムでも良いのだが、それによって判断されるわけだが、それは見方を変えれば相対的なものであるということだ。

紗夜からみた「天才」という「結果」は、彼女の自己卑下が関わる。また(学校のレベルという段階で憶測が混じってしまっているだろうが)、日菜の学校のテストで100点をとったという「天才」という「結果」は、テストの難しさがどれくらいか、周囲の学力レベルがどれくらいかで、容易に変わるだろう。

そんな中でも、到底真似できない「結果」を日菜は残している。ギターである。彼女はギュイーンと一発で弾きこなしてしまうのだから。これは「天才」以外には容易に出せない「結果」だろう。と。

しかし、ここにも穴がある。これは本当に「天才」だから導き出せる「結果」なのだろうか。

彼女は、昔から何でもできるらしい。姉のやることすべてすぐに追い越して行ったらしい。その「結果」は優秀なもので、確かに「天才」と思うかもしれない。

しかし、これはこうも言い換えられないだろうか。単に「器用」であるから、そういう「結果」を生み出してしまったのであると。

せこい理屈かもしれないが、一応、根拠を示そう。日菜は、紗夜がずっと日菜の行動によって傷ついてきたことからわかるように、紗夜をずっと無自覚に傷つけてきた。これは、同時に紗夜の「不器用」さを傷つけていたからではないだろうか。

紗夜はよく「努力」をする人であると評されるが、「天才」と「努力」というものは、対比するにはお門違いである。「天才」は「結果」であり、「努力」は「過程」であるから。「器用」さと「不器用」さ、という構図のほうが、日菜と紗夜の構図をあらわすのに相応しいのではないだろうか。

日菜は「天才」という言い方は相応しくない。「器用」である。

だから「不器用」な紗夜を無自覚に傷つけていた。


ここで、新しい疑問である。前述の「無自覚」という言葉に関連することである。日菜は、紗夜の顔を伺いながら、ずっと前見たく仲良くなりたいと思っていたにも関わらず、紗夜に冷たい行動をとっていた。またある時は、レッスンができない丸山彩に「どうしてできないの?」と発言する。


日菜は本当に「他人」の気持ちがわからなかったのか。

これは簡単だ。イエスである。

日菜の行動や言動から推測してみることにする。まず、日菜はよく擬音語を使い、しばしば周囲を混乱させる。これは日菜の言いたいことが、イメージが、世界が、伝わっていないから、言語を通して繋がっていないからである。彼女の「るんってきた!」は、私たち風に言えば「それはとても面白い」というごく単純な褒め言葉かもしれない。あるいは「今日は星が綺麗だ」ということを伝えたいのかもしれないし、「ザクっていう音が好きだから紅葉って好きなんだよね!」という思考なのかもしれない。しかし、日菜の表現はそうはならない。全部、日菜語で表現される。これは何を意味するか。それは他でもない、日菜が「他人」にその表現で伝わると思っているからである。

日菜は彩と会うまで、「他人」の面白さに気づかなかった、と話す。その前には、紗夜によく「人の気持ちになって考えなさい」と言われていたという。


ところで、ここまでで非常にわかるように、あるいは既に私たちが実感しているように、日菜は「他人」に翻弄されていた人間であることがわかるだろう。そこで日菜の動揺があるかは別として。

それは千聖も既に物語内で経験していることだ。『つぼみ開くとき』で、彼女はメンバーから誤解を受けていた。白鷺千聖は子役からのベテラン女優。だからなんでもできるはずだ。「千聖ちゃんならなんでもできるって思ってたよ」という日菜の言葉は、まさに千聖にとって日菜が千聖を翻弄する「他人」になった瞬間のいい例だ。

日菜の話に戻すと、日菜の「天才」という「結果」は、必ず誰かの判断基準がある。それを広義に「他人」と言うならば、それが彼女を翻弄するだろう。また日菜がずっとわからなかった「他人」は、言語を通して日菜とは繋がらない。日菜のことは、本人がどう思っていようが、誤解を誤解のまま伝えていく。それは人間ならば誰でも起こり得ることだが、日菜はそれに鈍感である。そしてメタ的に言えば、最初に述べたように私たちは日菜と「他人」としてしか接することしかできぅ、介入を許されない。




ここからは私の妄想と推測が入り混じるが、すると、日菜は「他人」がわからなかったように、「自分」もわからなかったのではないか。

そんな彼女を今までに繋ぎ止めてきたもの。それは紗夜と「双子」であることでないか。

「双子」は「一緒」。だから「おねーちゃんの真似をする」。

一緒に姉の好きな犬の番組をみようと誘う時の「あたしたちって双子じゃん?」というロゼリアバンストでの発言はそれを裏付けないか。

日菜は一緒に何かをし一心同体であるところの「双子」というアイデンティティが「自分」であるから、おねーちゃんが大好きであり、だから「他人」を知らなかった、別に知る必要もなかったと言えないだろうか。

皮肉なのは彼女の思っている「双子」も、私たちが検討してきたような「天才」と同じく、ステレオタイプな見解なことだろうか。





余談だが、今までに述べなかった、地図記号が読めない、美術室の匂いが好きなどの要素は、「天才」と呼ぶ時に判断する根拠に使われるだろう。私はこれはミスリードであると推測する。つまり、彼女が仮に「天才」だとしても(これに関しては否定したのだけれど、ある天才をみて天才と呼ぶ時)、なんら関係ないことである。先入観が私たちを邪魔しているだけなのだ。「結果」として血のにじむ努力をして掴んだら「天才」と呼ばれたり、「過程」として何もしていないのにヤマが当たって連続で100点を取り続けそれを黙り続けていたら「努力」と呼ばれたり。実態は逆であるにも関わらず。


余談その二。バンドリには本物の「天才」がいるだろう。瀬田薫である。

瀬田薫がなぜ天才か。それは彼女がすごい演技をする「結果」を残すことは勿論だが、儚い儚い言ってる変な人だからというのは根拠にならないことは、もうお分かりの通りだ。彼女が日菜と違い「器用」と片付けられない理由。それは、こころが指摘していたが、シェークスピアに対する「愛」……を利用した、寂しい心を埋めることである。言い換えればその「執着」である。この「執着」こそ、「天才」という「結果」を生み出すのである必要な条件である。逆に日菜はない。なぜならそもそも「自分」がないから、その「執着」する対象が、わからない。彼女はまるで自我の芽生えていない幼子だ。




ここまでの解釈で、石田麦さんのツイートを多大に参考にさせていただきました。