寝床

アニメや漫画

バンドリ雑記5

バンドリガルパをゆっくり読み返してると本当にいろいろ新しい発見あるなと感心してる。一人のキャラを軸にみてって、どうキャラが成長しているか(縦)、どう関係が広がってるか(横)、みたいな。例えば、麻弥一人にスポットを当ててみると、2章にて触れられなかった麻弥のアイドル観がジブンアイドルで無事提示された(縦)。

横は、ウィンタースポーツがわかりやすいか。スマイルアンカーにて、リレーでは正々堂々と勝負することが、相手のためにも自分のためにもなるのだと美咲から伝えられ、自分の身にしたはぐみが、スキー未経験の麻弥に、今度は教える側に回っている(横)。

で、これが25人分となると、量が膨大。私もとてもじゃないが整理しきれていなくて、メモが必須だろうなと。

個人的に今気になっているのは、リサと有咲(相性がいい?)、はぐみと麻弥一生懸命コンビ)、薫とあこ(あこってどうして薫さんのことかおるって言うんだろう)、モカと日菜(モカは星に興味があるのかな)あたり。まだあるかも。個人で気になるのは、りみ、はぐみ、イヴ。麻弥はジブンアイドルで掘り下げられてようやく性格が掴めたなあという感じがしてほっとしている。理想が高いと言われて、なるほどなと。一つだけ元も子もないことを言ってしまうなら、麻弥はアイドルになる動機がない。芸能界に入る、細かく言えば表舞台に立つ動機が薄い(メソッドで薫が「麻弥が(表舞台に立つ)私に憧れていたとは!」という意味合いのことを言っていたのが気になるけれど、いや、まさかこれが後々伏線になっていたらちょっとガルパが末恐ろしい。深読みのしすぎだと思いたい)。そもそも麻弥の理想とするアイドル観を創り上げたのは彩であり、しかも他のアイドルの在り方は、少なくともガルパでは示唆されていなかったはずだ。パスパレにいていいのだ、そのままのオタクな麻弥でいいのだという結論の持って行き方は、綺麗にはみえるけど、少々強引かなという気持ちは否めない。千聖がよぎった原因はおそらく的中していて、麻弥はパスパレの中に袋小路である、ということだろうか。アイドルなんてやってないで違うことやったらどうだろうと思うけど、繰り返すようだけど、そんなこと言っても無粋かな、と。アイドルって便利な言葉だな、と思うと同時に、そういえば前に誰かが読んでたのを譲ってもらった週刊誌に、30オーバー(もっと上だったかもしれない)女性が集まってアイドルする場所がある、という特集があったことを思い出した。彩ちゃんはアイドルになりたくてアイドルになった人だけど、その先どうするんだろうかと、時々考えてしまう。彩ちゃんの縦の作りは非常に難しい。メソッドでは麻弥に新聞紙敷いてって言われてたし。麻弥の気持ちは非常にわかるのだけれど。アイドルとはなにかと考えてみるのも、また楽しいのかもしれない。

ラブライブサンシャイン映画 覚書

2016年の6月、鞠莉の誕生日の一週間前、思い立って沼津に行った。μ’sのファイナルライブをライブビューイングでみて、ラブライブ熱が再発し、G'sマガジンを買いあさって、Aqoursの存在を調べてたら、見事にハマっていたのである。

ラブライブの存在を知ったのは、g'sマガジン本誌、アニメ化前、西木野真姫がベッドで寝転がっている扉絵で気になったから。確かその時は4thシングルまでしか出てなくて、アニメ放送の発表もまだだった。1stライブのDVDを買って楽しんでいた記憶がある。

アニメ化の情報が入って、リアルタイムでみていた。最初こそ楽しんで見ていたが、モヤモヤしたものがあった。みんなで一緒にしなければならない義務感に駆られるのが嫌だった。部活特有の空気というか。多分疎外感を覚えたのだろうけど、まあリアタイ当時、色々あったので、見方が若干尖っていたかもしれないとは振り返っても思う。今は否定もしないけど、テーマの捉え方は、映画まで全体を通して、超絶愛の重い話だなあって感じだった。

G'sマガジンと性格が全然違うことも戸惑った一因で、どう受容していいのかわからなかった。でも、μ’sの頃の映像や曲、歌詞は、本当に出来がよくて、映像や曲のためにつらくてもアニメをみようという意欲が湧いていた。

Aqoursは対して、1期をリアタイしていた当時、映像が全然刺さらなかった。6月に沼津、7月にアニメ放映。私の中にある景色と、千歌が語る普通怪獣の話がうまく噛み合わなかったし、1期9話の3年共の話は、特に私を苛立たせた。

そこから映画を観に行こうと誘われて、1期の続きと2期を「仕方なく」みた。1期はぼんやりしてたけど、2期はおもしろかった。映像のエッジさが戻ってきた!これがあればアニメが楽しいって思える!アニメは技術なんだ!となった。「仕方なく」というのはとても重要な作業なのだろう。「仕方なく」を繰り返してつまらないものからでも学びを得る。

そして映画。だがその前にサンシャインの総括として、この一連の話は区切りをつけるべきではなかったのでは?一つに出来たことでは?そしてもっと先のテーマを見出せたのでは?とも思うのだ。ラブライブは特にサンシャインで顕著になっていったが、新しい情報が、解像度を上げていくのではなく、全く新しいものとして積み上がってくる。なかなかこのことはストレスがかかる。リアルタイムだと1話放送するのに一週間かかるわけで、新しい情報に飢え耐える日々を待たなければならない。余談だけど、だから私は最近アニメの視聴方法を変えてる。全部の放送が終わったら全部見る、と。


でももうぶっちゃけそんなあれこれはどうでもよくって、サンシャインの映画めっちゃよかった!って話。たしかにちょっと退屈だった。でもあれは子どもの話だった!夢みる子ど、自由を愛する子ども、すだちを覚える子ども。主にテーマの核になるのは千歌、鞠莉、ルビィの三人かなあとみてて感じた。千歌は夢みる子ども。0から1、1から10、0もなかったことじゃなかったと振り返る。鞠莉は自由を愛する子ども。果南とダイヤと一緒に駆け回って、スクールアイドルをはじめて、追いかけられてるつもりが追いかけているかも?という無邪気さ。ルビィはすだちを覚える子ども。ダイヤや理亞との関係、一年生として「スペイン広場」を選んだこと。

でも子どもって言うからにはまだまだ成長譚があって、映画で言ってたように、新しい始まりにしかすぎない。千歌は6人でのAqoursリーダーとして紆余曲折あるだろうし、鞠莉はイタリアの大学でスクールアイドルのない生活を寂しがるかもしれないし、ルビィはお姉ちゃんがいなくてもなんでもできるってわけではまだないだろう。

感心した台詞もあって、甘えてちゃだめだよ、みたいなことをルビィがちゃんと言ってたこと。理亞も理亞でわかってて、で、ああしないと人って成長しないんだよな。きっとルビィも理亞も叱られるのが好きだったんだろうな、でもそういうのって大事だよな、と。役者を活かさない方法、それは誉め殺しだよ、みたいなツイートをみかけたのだけど、たしかにねーと。だから私もこうやってガンガンアニメ見てガンガンブログ書いたりしてる。

そういえば、2期でみんなの声が聞こえる描写あったと思うんだけど、あれは映画で意図がわかって戦慄した。郷愁なんだな。心に残っちゃうんだな。ある知ってる小学校が、今年の四月には廃校になって、同時に校舎が壊されてるのだけど、桜の木は残ってて、それがすごく綺麗だった。親子二人が校舎で遊んでる姿をふと見て、なんか泣きそうになったことを思い出す。この光景は別に郷愁ってわけではない、最近のある出来事だけど、心の琴線に触れる瞬間は、あるよねっていう。紙飛行機も、自分で改造して飛ばしてたなあと思い出した。折り方もとうに忘れてしまったあの紙飛行機も、虹を超えて今は青い鳥になったのだろうか。

虹、二重になっている虹を見たことを、思い出した。空は繋がっているんだなあと思う。海。海の近くに行くと、風が全然違う。空は繋がってるけど海は陸続き。海じゃなくて空だったのは、梨子の作った曲「海に還るもの」へのアンサーだったのかな?とも思う。母なる海に私たちは行くんじゃないよ、前世でも来世でもまた会おうぜとかそんなんじゃないよっていう。愛がちょっと軽くなったかな。解釈が大げさ?よく言われる。

愛が軽くなったのはサンシャインという作品が一つの儀式だったからだと思う。主役は三年。送り出して、また会おう、っていう。セイントスノーとAqoursの対決もそう。決勝戦の延長は2組にしか意味のないことだったけど、必要なことだった。儀式を行って、安心して、これから清々しく生きてこうねって。現実だと葬式もそんな役割があると思うけど、葬式っていうとちょっと違うかな。μ’sはそれをしなかったのか。今が最高とは言ったけど、あの瞬間に篭ってしまったように思う。けどそれが悪いことじゃないことは1期序盤で語られた千歌のμ’s解釈が証明してくれる。あの解釈って妥当性は無いと思う、千歌だけのものだと思うんだけど、千歌が前に進むにはそれで良かったし、μ’sもそれで結果的に前へと進んでいったのだなあと。ヨーソロー。「水深は浅いの 青春は深いの」って恋になりたいAQUARIUMの歌詞にあったり、果南がダイビングしてたり、曜が高飛び込みやってたりするのから分かるように、海は空と対決する時、深さで勝負してくれる。

個人的な話、私は水が苦手。泳げない。お風呂も温泉も苦手。シャワーも苦手。淡島に渡る際に、ボートに乗ったんだけど、ちょっとおっかなびっくりだった。

色々考察はあるんだけど、三年生曲の話とか、鞠莉関連とか、鞠莉とか、鞠莉とか。あと月ちゃんのこととか。また今度。

ラスト、みんな子どもになってるとき、梨子だけ少し大人びて見えたのは気のせいだったかな。高校2年の春、新入生が入ってきて、ああ初々しいなーって感じた風景を、あのシーンでぱっと思い出した。「10年後のあなた 幸せでいるよと 妹みたいな背中につぶやく」って牧野由依のスケッチブックを持ったままって曲にあるんだけど、そんな感じ。

またいつか沼津に行きたい。そして沼津に行って、その景色を自分のものにしたい。

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観光所にて。センターを務めた曜と、鞠莉のバースデー告知。

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優勝旗を立てていた浜辺。奥は淡島。

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横に視点を向けて。

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三津シー。2ndシングルにて舞台になっている。

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みかんどら焼きで休憩。

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よくわからない場所にて。

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あ!学校行きのバス停だ!

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淡島へゴー。

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さすがお金持ちは違うね。果南、言葉は選ぼうってホストとかヤクザのほうがわきまえてるよ。見習おう。

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いい景色だね。載せきれないな。

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こっちは千本浜。当時G'sでヨハネが降臨していたんだ。ほんとだよ。嘘つかないよ。

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沼津御用邸にて。散歩しているおじいちゃんが鼻歌をうたってるのを聴きながら歩いたよ。

最後はゲーマーズもといヌーマーズに寄って帰った気がする。写真、こんなに撮ってたんだなあと驚く。あの頃の0も生きるんだね。

ラブライブサンシャイン(TV)、キラキラプリキュアアラモード1〜14話 雑記

20190123

ラブライブサンシャイン2期

1期より断然おもしろくてびっくりした。どうしてこの面白さを最初からできないんだ……と思ったが、1期は盛大なプロローグであり、準備だったのだなと。にしたって土台づくり長すぎだろと思うけど。

μ’sの頃とは違い、学校の統廃合が覆されることはない。その決定は子どもではどうしようもないことだ。鞠莉が理事長であっても、大人びてても。サンシャインは子どもの話だ。夢を語って、夢を見て、夢を追いかけて、夢を実現する。叶えたその場所はとても小さい。だからこそ彼女たちの未来に想いを馳せられる。

雰囲気PVみたいな作りは相変わらずで、キャラにテーマをそのまんま語らせるのは、キャラものとしてどうかと思うけど(おかげでキャラの魅力がどのキャラに配属されてるかよく覚えられてない)、その点メイン張る千歌が有利で、子どもであり二人の姉や母親、学校、梨子に見守られ、自分自身を変える。結局は自分で自分を変えてくしかなくて、サンシャインのテーマ性というのはここにあるのだろう。千歌は1期でμ’s解釈を自分なりにしていたと思うけど、ああいうのは与えられるものでなく、千歌のようにそれぞれ真っ直ぐ向き合っていく、その姿勢が大事ということか。ダイヤさんみたいにオタクが知識ぶってても、自分自身の夢を追いかけなければ始まらない、という。

まあというわけで色々やらかした三年生は反省しろよ、ってなるんだけど。立場に振り回されがちだった鞠莉はさておき、ダイヤと果南はなんなんだ。鞠莉をスクールアイドルに誘って好きにならせといて、挙句捨てて、お前が気づかなかったからうまくいかなかったんだぞって。そりゃないよ。2期1話での鞠莉の泣き方に動揺しまくって危うく全て無かったことにしようとしたけど、いやそれでも三年生がこれからも仲良くやっていきますよと言われても、鞠莉はさっさと果南とダイヤから距離を置いた方が無難じゃないかなと思ってしまう。まだ千歌と一緒にいた方がいいんじゃないかなと思ってしまう。みてるこっちも体調崩す。かといって果南とダイヤを糾弾し続けるのも、子どもだけでなんとかするぞという作品の構造からして、ちょっとお門違いかなとも思うけど。三年生が広い世界をみてどう感じるか、映画で答えが出るのだろうか。


キラキラプリキュアアラモード1〜14話

いちかが軸で、あと4人はサブキャラ的配置。演出は少女漫画っぽいなという印象。みんないちかのことが好きだからプリキュアになったりお店に行く。行動原理は違ったりする。バラバラだから面白い、ってやつ。キャラうまくかけているなーと見る度に感心する。

しかしきになるところはある。プリキュアに敵側が謝りに行く場面があったのだが、それで「俺たちは操られてたんだ」と言って、いちかはスイーツを渡して許し、元締めの悪役許さねーってなる。これはちょっとどうかなと思う。たしかに元締めが一番悪いのは揺るがない。適役は操られてただけ。たしかに。でもこの主張は、元締めに責任を全て転嫁するだけのように思う。自分の欲望を増幅させられたというらしいけど、その欲望は紛れもなく自分のものなのだから、まずは向き合おうよ、ってなるんだけど、どうだろう。同様の違和感は島本理生のファーストラヴでも感じた。

誰かを懲らしめるというのは、一種の快感なのかな、と。今の所悪いの全部リオくんなんでしょ?ってなってるんだけど。この構造どっかで見たと思ったらあれだ。俺TUEEE系の私刑だ。プリキュアと俺TUEEE系が繋がってちょっとびっくり。もう少し視聴進めないとなんとも言えないかもだけど。

キラキラプリキュアアラモードプリキュアという看板を取っ払った状態でみてみたいなという気持ちも拭えない。ただ、誤解のないようはっきりいうと、私は現状、この作品を楽しんでみており、そして大好きだ。スイーツ食べたいし作りたいな。甘党だから。


雑記各種 20190119-20190120

最近読んだ漫画

・彼女、お借りします。1巻

・となりの吸血鬼さん


もくじ

ラブライブサンシャイン再視聴

・ハッピーエンドとバッドエンドの中にある読み手

・まるで遺品整理のような



20190119

ラブライブサンシャイン再視聴

ラブライブサンシャイン1期を全部みた。放送当時は9話のあんまりのあんまりさにやられてそれ以降みていなかったが、今更なぜみてるかというと、知り合いと映画を観る約束をしたから。その知り合いが復習をするというので負けない……と謎の対抗心を燃やして、TVのほう全部みてやろうという気持ちに。

総合としては、やっぱり微妙だなという感じは変わらない。競技として成長したスクールアイドルと、千歌の打ち出したスクールアイドルのメッセージが、劇中でうまく結びついてこない。競技ものって、スポ根になると思うのだけど、千歌の出す結論は、そのシビアさを結果的に打ち消している。言っていることはよくわかるが、それは二次元三次元融合コンテンツであるという前提でないと難しいのではないか?と思うが、どうだろう。千歌自体は魅力的なキャラだと思う。いい子だ。

対して果南とダイヤはなんなんだ。鞠莉を弄んでいるだけじゃないか、と怒りに駆られる。鞠莉をスクールアイドルに誘っておいてあの態度はない。流石にない。言ってましたわよ、あなたが気づかなかっただけって、そりゃないよ、っていつも思う。鞠莉は一刻も早く二人から逃れろと思うけど、鞠莉はそれでも二人のことが好きなんだろうなと。いや、彼女がもしかしたら、スクールアイドルを一番好きになったのかな。G‘sマガジン世界線だが、千歌、ルビィ、鞠莉の三人の話は、よく考えていたし、書いた記憶もある。鞠莉は良くも悪くも外から影響を受けやすい人なのだろう。一方で、女を見る目がないとも思うけど、まあスクールアイドルをやってふ果南とダイヤが好きと解釈すれば、非常に納得がいくかもしれない。鞠莉、二人のこと本当に愛してる?今こそ愛が試される時。にしたって果南とダイヤは鞠莉の心の広さに感謝するべきでは。

ぐちぐち言ってるけど、お気に入りの話数もあって、それは四話。花丸のモノローグがいいし、花丸の本音が絶妙に語られないところもいい。曜の話もだけど、キャラをみれば本当に面白い。出来事を追ってくとつまらない。こういう時はアリストテレス詩学が有効だ


20190120

・ハッピーエンドとバッドエンドの中にある読み手


「物語はハッピーエンドでなくっちゃ」傘木希美の言葉。希美が思ってるハッピーエンドっていうのは、リズと青い鳥がどっちも幸せにっていう意味だと思うけど、それは読み手(希美)の受け取りの語弊があると思う。正確にいうなら「リズと青い鳥をみて私がハッピーになる物語がハッピーエンド」って感じ。だから読み手の感情はなくてはならない存在なのかな、と。

話は飛んで、今見返してるメルヘンメドヘン(原作)では鍵村葉月が「まるでシンデレラの物語の中にシンデレラがいないみたい」とシンデレラのことを評価している。上記に従えば、シンデレラは葉月にとってはバッドエンドかな、と。だからシンデレラという原書を書き換えて私の物語にする。

私の物語にするというのはとても重要だと思う。物語を読む際、読み手はいないと不可欠だけど、最近はキャラ同士の関係性の話とか、そういうのがTwitterのタイムラインではよく散見される。局所的な情報にとどまっていることは周知の上だが。スタァライトのアプリ、スタリラについて、誰かが言ってたことが印象に残ってて「自分がどこに入っていけばいいかわからない」と。バンドリのアプリ、ガルパはスタッフが読み手の担い手をしていたが、スタリラはそのような人物はいないらしい。スタリラのプレイはリセマラがだるくてやめてしまったが、ちょっとなるほどと思った。

読み手はいないと成立しない物語に、読み手が消されるジレンマを、どう解消したらいいか、色々試行錯誤か伺えるなと、さまざまなものを見ていて思う。


余談

1、私はシンデレラの話を聞かされては納得できなかったらしく、どうしてそうなるのか問い詰めてたらしい。曰く、叔母らがシンデレラをいじめる理由がわからない、と。「そういうものなんだ」と聞かせても納得しなかったという。確かに、叔母だからいじめやすいというのは、あくまで可能性であり、唯一性とは少し違うと思う。童話を読むことの難しさはここにある。


2、アイドルとは何か?物語だ、という結論を、Wake Up,Girls!は打ち出していた。物語としてアイドルを提供することで、読み手、つまりファンはどこに所属するかというと、WUGの場合は「俺たちが支えるんだ」という場所、具体的にはライブなどだ。この「俺たちが支えるんだ」という欲求は、非常に見逃せないもの、排除することが難しいものだろうと思っている。話はそれるが、その点ゾンビランドサガは、アイドルものアニメの話としては弱かったなと思うけど、現実のファンがつきやすそうなコンテンツだなと思った。要はどこに焦点を当てるかということだ。ビジネスか、物語か、キャラか、エトセトラなど。


・まるで遺品整理のような

こうしてブログを好き勝手に書いてると遺品整理をしているようだと思う。まだ自分が死んでもいないのにこんなことを言うのは大袈裟だが、ある日死ぬ夢を見て、正確に言おうと努めるならば「自分が死んだという体験を与えてくれる物語を見」て、強く思ったのだ。夢かどうかわからなかったのだけれど、そういう体験は何度もある。というと、いや私だってこのような体験が……とこれを読んでる人はもしかしたら思うかもしれない。私はそのように永遠に経験の語り連鎖をしたいのではなくて、ただ書くことにより吐露を繰り返し、整理をしたいだけだ。そしてこれを表に出すことに最も意味があると考えるからだ。もしあの夢が本当なら、私の現在は死の残滓、あるいは過去の亡霊ということになるが、それは迷い言にも程があるだろう。

経験の語り連鎖というのは様々なところで見受けられて、私を悩ませる種となる。かといって経験を積むことは悪いことではなく、とても大切だ。ある分野において理論を体系づける、要するに一種のバイブルをつくることというのは非常に重要なことだと思うけど、見てるとそういうのは一人ではなかなか形にするのは難しいと思う(でも最近は色々と出版されたりしてて、ああ時代もアップデートしているから気をぬくと置いてかれるなとなる)。

経験の語り連鎖について。ソクラテスの弁明あたりは参考になるんじゃないかなと。読みやすいし、短い。


ドメスティックな彼女(アニメ1話、漫画1〜10巻)覚書

知り合いに勧められるがままにドメスティックな彼女のアニメ1話をみて、そういう話なのかとぼんやり思いながら、漫画を10巻読んだ。面白い。そう感じたので、こうして書いている。主人公が小説を書いてて、小説家を夢みてて、舞台が文芸部にうつって話が広がるのが、個人的に楽しい。高校の頃は文芸部に所属していたので、懐かしく思う。

そういえば、ふと私が小説を書き始めたきっかけってなんだっけって読んでて思ったけど、ある時賞をもらって嬉しかったからかもしれない。今だから思うことで、当時の私に聞いたら絶対否定するだろうが。ただ、嬉しかっただけでもなく、なんで受賞したのかわからなかったのだ。個人的にはあまり作品に自信はなかったから。書評を聞きたかったのだが、その日(各校の文芸部が集合するなにか、なんだっけ)、休んでしまった。電話で受けて平静を保ってたけど嬉しかった。

ただ、当初は、ルイが賞をもらってて主人公がもらえてなかったように、私の近くにいた知り合いが、小説で最終選考まで残ったと聞いて、悔しかった。いや、この言い方は少し語弊がある。今、悔しかったのだなとわかったから。

環境は人を変える、という言葉を主人公は(作家である)先生に言われ、とにかく書きまくって添削されまくるけど、ああやっぱこうやって書きまくらないとダメだな、と実感するのだった。

百合好きとしては、作品としての話をすると、この話を全て女性でするのは成立するのかということを考えたりする。でも、難しそうかなと若干思っている。環境は人を変えるというのはシビアな面を持ち合わせていて、主人公たちはそのシビアさと真っ直ぐに直面しているからかっこよくて、でも反面、ルイやヒメのような子に甘えていくのが、魅力を増すのか、と。


ドメカノを読んでから、ちょっとだけ小説応募を探してみた。でも、わたしには向いていないなと思って、ネットに流すに留まってる。色々と考えるのが面倒なのだ。ただ、意識するのとしないのとではだいぶ差がある都は思うから、勉強はしているけれど。何故か今は自治体法務の入門本を読んでる。参考になる。


さよ朝とリズ青の覚書

さよ朝とリズを連続で見たことから、二つの作品を並べて考えることが多い。それが単なる時期的なものであって何の意図もないのだが、考え続けていくうちにさまざまな部分で繋がってしまうことがある。繋がった結果、私はこっちの方が好き……という比較を用いた感想に行き着いてしまったりする。何度も繰り返すようだけど、これは作品視聴をしている漂流の結果であって、私は好きな話をここで書き散らかしているだけだ。


すぐれた映画という点ではリズ、好きな映画という点ではさよ朝だ。リズは過去にちょっと感想を書いた。リズは本当に暗くなる。ああいうのがあるんだったら学校なんてもう行きたくないってなるし、今も学校は嫌い。大嫌い。でも学校で勉強するのは好きだったし、友達と会話すること自体は嫌いじゃなかった。でも、なんていうか、人間色々あるけれど、ユーフォシリーズってどうしてああもリアルに寄ってくるんだろう。疲れる。勘弁してほしいなって思うのは私だけだろうか。なんとなく理由は想像できるけど、詳細は書かないでおこう。私が見返した時、これだけでもう何を示すかわかるだろうから。作品の出来はすっごいいいと思ってるから、サントラを聴くたびに、ああまた見返したいなあと思う。あんまりこう思うことはないので凄いなと漠然と思っている。

さよ朝も少し書いた記憶があるけど、楽しむに当たっては、岡田麿里を中核にみるのがいいのかなと。視聴にあたって、作り手の技術に興味はあっても、作り手そのものには意識しないようにしてはいるが、やっぱり完全には無視しきれない時はある。小説の作家読みしている時とかめっちゃ実感する。selectorきっかけでハマって、色々作品を見て回り、自伝も読んでいたので、尚更思い入れが強いのだろう。劇場版selectorを観に行ったのはいい思い出だ。

さよ朝は、嫌な言い方になってしまうけど岡田麿里らしくないというか、らしさが出ていたのは茅野さんと石見さんのキャラが子どものためにヒステリックになるシーンは決まっって、ああ岡田麿里だこれは、ってなるのだった。だから何というか、岡田麿里がこのように普遍的かつ固有性のある話を書くようになって、安堵している自分がいるし、映画放映前、どこかの雑誌で、岡田麿里の好きなようにやらせると言っていたPAWorksの堀川Pの発言には胸いっぱいになった。

母親とその子どもの話となると、いろはOVAが浮かんでくる。あの話も普遍的というか、この手の話は突き詰めると結局のところ結論は似てくるというか、その過程、つまりキャラの描写や筋の説得力に、どれだけ労力を費やせるかというか。さよ朝も、結論が新しいわけでは決してない。ただ、綺麗な話ではあった。

主題歌ウィアートルviātorはラテン語で「旅行者、航海者」って意味らしい。詩が少なめの印象で、『太陽は昇るから』という終わりかたは耳に残る。天文学をやると謙虚になる、というフレーズをネットだかどこかで見た気がするけど、どこだったか。なるほど確かに、空を眺めていると、不思議と自分のスケールの小ささ、『ちっぽけな星』の中にあるということの実感ができるかもしれない。まだまだかもしれないだけだけど。


冬と寒さと胃痛と熱と時々ヒプマイ、そして空

ここ数日、というか年末あたりから、身体に違和感があった。身体の芯から寒さが伝わっていくような、そんな感じ。こたつや電気ストーブの前に佇んでも、全く暖かくない。となりの吸血鬼さんにハマっているので、私はとうとう吸血鬼になったのか……とか浮かれたこと考えたけど、そもそも吸血鬼、生きてないということは、寒さを感じるということもないだろうし。私は人間なのだなあとぼんやり思いながら、チョコレートを食べたら、気持ちが悪くなって、吐いた。これが昼ごろだった気がする。胃が痛いなと自覚したのは、吐いてからだ。いずれにせよ立つのもつらくて、ただ出先だったので、なんとか堪えた。夕方、耐えきれず病院に向かい、胃が痛いと伝える。ここで胃が痛いというのは失敗だったかなと思うが、しかし病院に行くといつも思うのは「今日はどうされましたか」の問いかけに対する返答、すごく難しいな、ということだ。何を返したらいいのかわからない。お医者さんが大事だと思う判断材料がどれだかわからず、経緯を全て話さなければならない気持ちに駆られて、最終的に問診の最初では、黙ってしまうことが多い。この不安感から、ぼんやりと医者になりたいなあと思うこともあったが、不安感を拭おうとして目標設定すると私はなんでもなりたいと思ってしまうし、まあそれはそれで好奇心が強い長所なのだろうが。

診察室に行くまでに、熱をはからなかったのだが「熱はないのですね」と言われ「そもそもはかりませんでした」というやりとりを2回ほどする。最終的に認識は「私は熱がない」と判断されたのだろうか。これを書いている今となっては、もうどうでもいいことだが、帰宅し熱をはかったら、微熱があったので、苦い顔をしたのもまた事実であった。入る情報を間違えると、判断も間違うのかもしれないと、思った次第。最初に胃が痛いといって、流行りのインフルの可能性を早々に排除していたから、やはり経緯などを説明すべきだったなと思う反面、病院が閉まる手前なのと、そして季節柄似たような患者が多いと、そういう判断にもなるのかもしれない。医者と患者間のコミュニケーションも難しいなと改めて実感した。


ずっとヒプマイ麻天狼の曲を聴いている。

観音坂独歩さんは俺のせい俺のせいターンに入ってる時に体調を崩すタイプの人なのか、そういうのはうまく回避しているのか、それによってキャラ解釈が変わってくる。個人的には後者で解釈してみたいが、まだ情報不足なので、どうかというところ。気づけばチグリジアを再生し胃を痛めている。体調不良の最大の原因、こいつなのではないかと思うくらい。

神宮寺寂雷さんは、死んだらどこへ行くんだろ言うってことは、死自体は受け入れてるよな気がする。しかし、そこから考え出してしまうと、まさに迷宮から抜け出せないような。それ自体が目的ならば、何も言うまいという感じだが。この人、ライバル関係にあたる人が指摘している通り、暗すぎてもうすこし明るくなろうよ、焼肉でも行こうぜってなる。こう、わかりました。あなたは輪るピングドラムをみるしかないでしょうとか言って、山田一郎さんと一緒にアニメ見よう。彼はアニメ鑑賞好きらしいし、どうやら中の人が絡んでるらしいので理由はある。はず。あと生きることは痛いんだ、というあたりは、西尾維新とか読むといいかもしれない。フィクションを愛してほしい。

伊奘冉一二三さんはシャンパンゴールドが嘘も何も彼自身なので、確かに向上心の塊で、凄い。寂雷さんも彼の行動力に対して、感心していたのもわかる。

麻天狼を聴いてると、蜷川幸雄の本で、ある俳優に対し、それまでパッとしなかったのが、ある役を当てたら見違えるように生き生きとした経緯を、彼には今まで行動に適する言葉が見つからなかったんだ、という感じで分析していたのを、思い出す。で、私がヒプマイで、聴いてて心地がいい、そして自分の中にある世界を代弁してくれるラップ=言葉は、麻天狼なのだな、と。これにヒプノシスマイクという要素、つまり交感神経、副交感神経に作用し人間に影響をもたらすというのがどう絡むのかは、実はよくわかってない。ラップの技術がすごければ、それはそれで感心するだろうし、技術があるのはとてもいいことだと思うが、生み出された言葉たちに、聴き手である私が共鳴するかどうかは、また別だろうと思うから。ヒプマイ聴くの楽しいので、体調が良くなったらもっと色々みてみたい。


画像は病院から撮影した空模様。綺麗だったので。やはり冬の空が一番好き。

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