寝床

アニメや漫画

GLF27(レヴュースタァシアター2)なな真矢合同『immortelle』寄稿 雑記

 2019年6月22日(土)開催、GirlsLoveFestival27、レヴュースタァシアター2にて頒布された、なな真矢合同『immoetelle』に寄稿させて頂いた。

 スタァライトのアニメ7話で衝撃を受けてから、時に二次創作を書き、思考に耽っていたところへ、なな真矢合同の参加者募集をTwitterで発見した。

 参加しようかどうか迷っていた。即決は、できなかった。理由はいくつかあった。

 まず、私はアニメスタァライトに対し、総合的に見てあまり良い感想を抱いていない。しかしそれはあくまでクオリティの問題であり、私が衝撃を受けた7話の描写、特に大場ななというキャラクターの掘り下げ、演技、演出、テーマが、とにかく気に入っていた。そこであった、主席である天堂真矢との会話は、ななのキャラクターを、特に再演を強く望んで未来へ進みたくないと願うほど臆病であるという面を掘り下げ、同時に真矢の舞台への一途さを表していた。アニメ自体に複雑な感情は抱いているものの、7話は私にとって特別な存在であるし、とにかくなな真矢が好きだ。そして舞台や漫画も楽しんでいて、スタァライトを満喫している中で、書きたい、という気持ちが沸々と沸き上がった。

 そこでもう一つの懸念材料があった。どういう話を寄稿しよう、というアプローチだった。私は7話にて、ななは純那や華恋との絡みで、二人とは全く違う景色をみているのだ、と切なくなった。二人がしゃべっている間、ななは途中で淡い空を見上げている。まるで話の筋はもう読めたと言わんばかりに。真矢が真摯にぶつけた、ななの聡明さ、卓越した才能が垣間見えた。同時に真矢には見えていないものも見えた気がした。それはななの抱えていた孤独だった。これは後の9話の文脈で語られている。オーバーチュアのなな回でもそうだったが、ななは寂しがっている、と私は解釈している。オーバーチュアで描かれていた純那との関係は私は不気味に思えた。彼女から巧みに逃げ道をふさいで、私は今孤独なんだよ? だから癒してよ、ね? と脅しているようだったからだ。9話で純那が取ったななへの献身的とも思える行動は、まさに私がオーバーチュアを読み感じたものと似ていた。

 なな真矢を考えていくのと並行して、考えていた。純那のことについて。純那のとりまく環境について。八歳で舞台少女を志した意味について。ななとルームメイトである意味について。さまざまな可能性について。

 ……なな真矢合同というからには、当然、なな真矢「を」書かれる執筆者のかたが多いだろう。そう考えた。視点が「なな」だったり、「真矢」だったり、ということだ。当然だと思う。カップリング前提であること、そして成人指定ということも踏まえれば。

 しかし、募集要項が、比較的自由な形式でも構わない、最終的になな真矢であれば構わない、という旨を見て、私は一つ挑戦してみたいと思った。

 純那視点からなな真矢を書いてみよう、と。

 参加表明をする前に、主催である黒い執行者様へ連絡を取り、承諾をいただいてから、執筆にとりかかった。執筆にはいかんせん、苦労した。最初の案では、純那、なな、真矢のほかに、ひかりも登場する予定で、彼女たちは30歳を過ぎている設定で話を進める予定だった。しかし話に終着点が見えなくなってしまい、完成原稿の原型、第一稿の形に落ち着いた。

 ただ、この第一稿には難点があった。純那視点ということに引っ張られすぎて、肝心要のなな真矢要素が薄くなってしまっていた。主催様にご指摘を受けて、修正を行った。早く原稿を提出しようと、焦る気持ちからっこうなったかもしれないと、改めて振り返る。これでは何のためになな真矢合同に参加したのかわからない。このご指摘はとてもとてもありがたかった。

 そして無事に完成原稿を提出。サンプルがTwitterやpixivに出た時は、感極まった。自分の名前がそこにある。マジかよ。なんかすごいね。

 合同誌に参加するのは初めてではない。だが、このドキドキはいつまでたっても慣れないのかな、この感覚が慣れたらやだな、とぜいたくにも思う。

 既に感想もいただいている。書いてよかった、と実感している


 イベントでは完売したとのことで、なによりだった。

 なんでも海外のかたが多く買ってくださっていたと小耳にはさんでいる。表紙を描かれている4zmさんが海外のSNSで宣伝してくださった、とも聞いた。やはり宣伝は大切なのだな。と身に染みている。


 私のところにも献本が届き、他の作者のかたのなな真矢合同を読ませていただいた。

 通販が近々開始するとのことなので、深くは触れないでおこうと思う。興味のある方は、ぜひ、お手に取っていただきたいと思う。

 しかし、前々から興味深いと思っていたのは、なな真矢は、性に関する題材が非常に多いということだ。理由はいくつか考えられるけれど、一番強く垣間見えるのは、地下オーディションにて決められる強者と弱者の決定が、7話によって覆された、つまり真矢の不動のトップがななによって覆されていることが判明したこと、だろうか。もちろん、この事実から、誰を焦点に当てるかによって、解釈はまた違ってくるし、論理の結び方も様々だろう。

 一つの結びとして、なな真矢合同は性の多様性でもあった、ということにもなるだろう。性が先立つのではなく、なな真矢が性の多様性を帯びていた。真矢からクロディーヌ、ななから純那など、多様なつながりがスタァライトのメインキャラクターの中でも見える中で、特に際立って。その中で、「純那視点でのなな真矢」という私にとって挑戦的ななな真矢が書けたこと、またそれを快諾していただいた主催様に、この場でお礼を申し上げます。

 


鹿島神宮夏越大祓 覚え書き

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鹿島神宮の夏越大祓式に参列した。開始時刻は午後三時。あいにくの雨だったが、予定通り決行する旨がTwitterで報告される。安堵しつつ、雨で濡れることに抵抗を覚えているので、残念でもある。だが思えば、いつも晴れの日に鹿島神宮に行っていた。雨の中向かうのもまた景色が違っていいかもしれないと考えを変えてみて、向かう。

午前中には鹿島神宮について、ゆっくりしようと決意。昼前についたが思っていたより閑散としている。やはり天気のせいか、それともこれから混むのか。駐車場も空いていて、人もまばら。いい時間に来たのかもしれないと安堵する。

せっかくだからいつもと違う道を歩いてみようと脇道に逸れる。あじさいが緑の中に彩りを与えて実に六月らしい光景。ただし坂道が苦しい。途中、猫と出会う。しばらく睨み合っていたが、膠着状態が続いたので私が折れる。

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疲れたのでお店に入る。日替わりのとり天定食を選ぶ。店の中には時計がいくつもあり、軽快なジャズがスピーカーから流れている。壺や銃も置かれてあり、店主の趣味なのだろうか、と勘ぐる。客は私一人で、静かな空間。もう少し遅ければこの閑散とした空気は味わえなかったかもしれない。もう少しいたいと思い追加でソフトドリンクを頼んだ。

ゆっくり昼食を食べ終え、鹿島神宮境内へ。もうすっかり見慣れた景色となったが、今日は雨。いつもと違う音が聞こえる。雨の音。葉に当たった雨粒は、私の肩や頭に強く当たる。そのかわり傘はいらない。木々が傘がわりとなっている。

脇道に逸れまくった結果、境内を何周もした。迷子になりやすいので仕方ないと思いつつ、やはり疲れる。最近体調が優れなかったので、特に、だ。鹿島神宮駅の下を通ると、ヒップホップの練習をしている男性たちがいた。要石までの道のりではぬかるみが酷く、何度も足を取られたが、下を見ると断片的な自分の姿が映っている。断片的、というのが肝だ。ちょうど、高校生の頃、そのような短歌を謳った先輩がいたことを思い出した。詳細は忘れてしまったが、ようやくその景色の断片がわかった気がする。曇り空も生い茂る木々も私自身も全て映っている。また中学の頃、体育の先生に、自分の顔は唯一肉眼で見ることができないのだ、と言われたことも思い出す。確かに考えてみれば奇妙であり、普段行なっている「鏡を見る」という行為の奇妙さを実感する。

御手洗池のそばで、団子を2つ食べながら、時間になるまで時間つぶしをしようと考えたが、もう少し周囲をみようと決意する。

行き着いたのはミニ博物館。平成に発掘された鹿島の資料があった。そこで特に印象深かったのは「國摩真人」という人物。覚書なので名前だけ記載する。


時間になり、いよいよ夏越大祓。人形に名前を記載し、参列。茅の輪をくぐる。多くの参列者がいる。傘を差す人、喋っている人、真剣に祝詞を唱える人。様々な人がいる。どのような目的なのか私には想像もつかない。また、私はどのように人から映っているだろうか、とも考える。最も、先述のぬかるみのように、そんなことを考えても、極論、致し方ないのだけれど。

皆で祝詞を唱える時、これもまた奇妙だと思った。まだ奇妙と思えるだけいいのかもしれない。私自身昔からこのような行事への参加を避けてきた節があるが、それは一度神事に触れたら盲信してしまうかもしれないという自分に対する畏怖があったからかもしれない。昔のことなんて確実にはわからないが、そのことが怖かった、と記憶している。

きっとこれからも片頭痛で体調を崩すのだろうな、と考えると憂鬱になるけれど、目に見えないものを目に見えるようにするのはいいかもしれない。

今日の空は白い。どうして空は青いの?という問いは通用しない。私たちが目にしている空の上には宇宙が広がっている。じゃあ、空は黒い?小説でそう言った人がいる。『君が僕を』の橘淳子の父だ。しかし「空が白い」今を否定することは、科学で証明された宇宙の謎を信じることと同義なのだろうか。「今」「空は白い」が「本当は」「空は黒い」。それって本当かな、と考えてみる。

本当に神さまっているのかな。その問いに対する答えは、鹿島神宮に実際に赴くことで少しわかった気がする。

帰りに卜伝コースター(半額になってた)やお手玉を買って、コーヒーを飲みながら、これを書いている。長居してたら一杯サービスして頂いた。

お手玉八月のシンデレラナインの阿佐田あおいが習得するにゃんこボールを習得することにしばらく専念しよう。

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雑記

自分について何かを書こうとするとき、あらゆる事実は描けない。あまりに大きな問題に立ち向かっているのか、演出が大げさか、視点が曖昧かのどれかだと思うが、一番は、書くという行為が、同時に嘘をつくということでもあるからではないだろうか。書いた時、自分がそれを忘れるのではない。書いた時、自分がそれを失うのではない。ましてウェブに上げるとなれば不特定に見られることを想定していて、自分は誰だかを書かれた記述でしか想定できない。だがそもそも、そこに嘘が紛れていないとも限らない。

自分について何か書こうとするとき、だから、私は故意に嘘をつく。事実は隠されるというのではなく、また証明されるのではなく、それは私の中にしかありえない。




母方の伯父の葬儀だった。肺炎だった。

梅雨入りし、雨が続いていた日々から一転、太陽が雲の隙間から覗いていた。ひっそりとしている姿は晩年の伯父に似ていたと思う。

私は晩年の彼についてよく知らない。妻に当たる女性と、取引先の女性と不貞行為を働いたことをきっかけに離婚してから、縁が遠くなっていた。

母の口から伯父のことはあまり語られなかった。伯父の職業も、伯父の不貞行為の詳細も、伯父の子どもに関しても、遺品である書類に目を通して初めて知ったことだった。


伯父は戸籍を私の実家に残したまま亡くなった。私の苗字と似ているが、戸籍上の字が少し違う。入籍する際、役所で字が認められなかったという。

伯父は無趣味だったらしい。15年前ほどの手記を見つけ、目を通したが、家から出られないことや、何を食べたか、何のテレビを見ていたかを簡潔に書かれているだけであった。


お前は結婚するために生まれた子どもだと、小さい頃、ある親族から言われたことがある。父と母のことを指している。父と母にも色々あって、そのことをよく思わなかったからだろう。私がそのことを気にしているとわかったのは随分後になってからだ。その親族は伯父の親であり、母の親でもあった。

伯父も同じく、また伯父と母の親も同じく、出産後すぐ結婚していることが書類からわかった。今の私も同じように、誰かに嘘をついている。


誠実であることは事実に対してじゃなくて構わないと思う。向き合いすぎると気が狂う。私は伯父と血が繋がっている。だがそれは何の関係もない。だが言われることがある。面影があると。よく。その度にあらゆる事実に向き合わなければならないような気がしている。だが、事実を了承した上で誠実であるべきだとは、思う。


伯父は子どもっぽい人だったという。それは私も同様だと、子どもっぽいというフレーズを聞くたびに思う。伯父に面影があると思っているのは、実は私のほうなのかもしれない。

子どもっぽいというフレーズが好きだ。だがそれは過去が思い出せるもので、未来が不確定で、私が臆病だからなのではないか、と考える。だが、それは、大人になりたくないということではないように思う。

金銭や法律に強いことはすごく良いことだ。これらについて勉強をするのは良いことだし、知恵を身につけていて損はない。

だからこそ私は子どもっぽくいるか、と思う。

皮肉にも、伯父に関して強く残っている思い出は、お年玉をもらったことだった。隣にはキュウリの模様みたいな猫がいて、伯父に懐いていた。


周りの言葉を気にして、振り回されていると思い込み、何年も引きずって、葬儀を行なっても記述をするほどに死人を忘れられずにいる。梅雨が終わる頃には忘れていると信じたいが、こう書いたこともいずれ興味をなくしていくだろう。

夏は嫌いだったが、あるアニメの影響で、今は夏が楽しみになっている。そのように伯父のこともきっと私の中で薄れていくのだろう。それが楽になる方法で、大人への第一歩だろう。


けれども私は子どもっぽく生きたいから、締めにある小説から引用して、記述を終わろうと思う。しかし、この小説が子どもっぽいことを語っているのではない。いうならば私の抽出の仕方が、子どもっぽいのだ。




「あんたは、将来なにになりたい?」

「いいえ」

中里十著『君が僕を4 将来なにになりたい?』小学館、2010

雑記

雑談するのが昔から苦手だ。高校時代、友人が「この前〇〇があって」と話し始め、話をきいてると、落ち着かなくなる。その話に終着点がないからだ。私はどういう態度をすればいいかわからない。相槌をうてばいいのか、アドバイスしたらいいのか。でも、どっちつかずの返事したら不思議そうな顔をされ、アドバイスをすればどうしてそこまで言葉にこだわるのかと不思議がられた。だから始めに「何が目的なのかはっきりと言ってほしい」と言った。愚痴を聞いてほしいなら聞き流すし、アドバイスがほしいなら隅から隅まで聞く。今思うと超めんどくさいなと思うが、友人は了承してくれた。その了承もその場限りだったけど、まあそういうのってそんなもんだよなと今になって思う。


というのも、メットライフドームで行われた5/19(日)ポピサイ対バンに参戦した時、知り合いと雑談をして、この話を思い出したからだ。

ライブは誘われて行ったのだけど、あんまり期待してなかった。ポピパのライブは退屈だった印象があった。そんな憂鬱を全部ぶっ飛ばすくらいみんな全力だった。サイサイとの対バンが影響していたのか、それはポピパや内部だけが知ることだけど、ああ頑張る女の子をみんなが応援したがるのってこういうことなのかって納得した。

演出に関して少し書いておく。トロッコとムービングステージを使用した演出だったが、その際大橋さんはドラムセットを全て持ち歩けない。ドラム演奏は一部のみ。では誰が?スタッフ?らしき人がやっていた。深く帽子をかぶったその人のことが無性に気になって仕方なかった。

サイサイは、知り合いの女性何人か知っていて、こういう人たちが聞いているのだなーと頷きながら聞いていた。楽しい曲が多く盛り上がった。


先日7巻と外伝小説2巻を読んだ『やがて君になる』みたいに、登場人物が巨大な視点で役割みたいに動いてれば楽だなと思ったりする。そういう意味で、一人称を与えられてる佐伯さんが一番自由を付与されているけれど、佐伯さんは今のところあんまり主体性がないから、もどかしい。個人的に佐伯さんは好きだから、読んでて楽しい。でも7巻はそんなに好きじゃなかった。この後茶番で終わるんだろうなと冷めてしまった。だが、それは視点の大きさが原因で、たぶん読者が一定のキャラに感情移入とか一人称設定したらいいんだろうな、と思う。七海先輩とか。

アイドルマスターシャイニーカラーズ覚書2

杜野凛世というアイドルが気になる。すごく気になる。なんでだろうと色々考えてたり調べたりしてくうち、凛世のコミュが文学と呼ばれていることを知った。たしかに情緒に溢れて素敵だと思うが、私もふとなるほどと思った。私は凛世のことを、プロデューサー=プレイヤー視点で楽しんでるのではなくて、ほかの視点、つまり「凛世とプロデューサーが出会って凛世の運命が変わった物語」を楽しんでいるのだと。プロデューサーはその物語に出てくる一人の登場人物であり、プレイヤー=私ではない。だって私、どれだけ凛世が美人でも多分彼女をスカウトなんてしない。できない。こわくて。何が?主体性がなくて。いやなんでこんなこと言うのかというと、似たような経験があるんだな。裏切りというほどでもないんだけど。私も懲りないなと思いつつ、凛世はかわいいと日々思っている。


凛世は少女漫画が好きと書いてあるけど、いつからというのはコミュで明かされてたっけ。シャニマスはソシャゲだからカードを手に入れないとコミュがそもそも見られない=キャラとの世界は広がらない。だからプレイヤーによってシャニマス世界観が違うと考えているけど(WING優勝してたりしてなかったり、Trueクリアしてたりそうでなかったりで、でシャニマス観大きく違うのだろうな)。夏葉と果穂のわんこたちと戯れるサポートカードがあったり、日本家屋で智代子から借りた少女漫画を読んでたりするプロデュースカードがあるのでその知識はあるのだが。それを元に考えると、凛世はプロデューサーとの出会いを自分なりに物語から発見しようとしているのかなと。凛世がプロデューサーに想いを馳せていることが放課後クライマックスガールズのメンバーにはわかられているらしいので(果穂やあと夏葉あたりにはわかられてないかもしれないが)、色々と入れ知恵されながら読んでいるのかもしれない。本をめくる時は文字に没頭し、その世界に埋没し、孤独になると思うのだが、凛世は違うのだろう。いつもプロデューサーやユニットメンバーの声があるのだろう。その身近な人たちと接するためのヒントを発見するために読んでいるのだろう。そこから何が言えるのかと言われると、正直まだ情報不足というか、判断するには尚早な感じもする。

少女漫画って面白いんだよな。時代の考慮は必要だけど。そういえば今期、箏曲部が舞台の、この音止まれ!ってアニメがやってるよね。凛世にオススメしたいけど、凛世がハマるかというと……(この音止まれ!はジャンプ系列連載の男性が主人公スポ根部活モノ)。当初は愛が主役ではなくさとわが主役の予定だったらしいけど(原作に書いてある。編集部の判断で愛になったらしい。さとわだと話が暗すぎるから。結果、爽やかな話になっているだろう。しかしさとわが主役になった時のじめじめさは容易に想像できる)。さとわが主役の話だったらハマってたかなとかは思う。

シルク・ドゥ・ソレイユ『キュリオス』仙台公演 覚書

2019/4/20土曜、シルク・ドゥ・ソレイユ『キュリオス』仙台公演、16:00の部を観た。その概要はHPに載っているので、そこに委ねよう。またパンフレットに記載もされていることだし、そこに預けよう。と言うのも私はこの公演を知人の誘いで行ったので、事前情報なし、サーカスとだけ聞いていった。だからシルク・ドゥ・ソレイユが詳しくどんな団体なのか『キュリオス』がどういった題材なのか、わからず、新鮮な気持ちで楽しんだ。


http://www.kurios.jp/index.html


席が正面後方だったのだが、前の席に座っている人の頭でちょうどステージが隠れて、全体を見渡せなかった。身体をよじりながらどうしたものかと思い、音楽と周囲の反応、照明で楽しんでたけど、そのおかげと言ってはなんだけど、私はいち早くその人を見つけることが出来た。ミュージックを担当しているシンガーの女性だ。ひょっこりと舞台装置の裏から顔を出し、気だるげにもたれかかりながら、しかし上品さは失われていない。蓄音機のようなものを背中から頭上へ設置していると記憶しているが、目が悪いので記憶しているかもしれない。

30分の休憩を挟んだ直後、黒を基調としたドレスを纏った彼女は、ミュージック隊として、表にはじめて出てきた。出番はほんの一瞬だったが、私はその瞬間なんだか雷を打たれたような心地になっていた。観客の一人が懸命に彼女に手を振っていた。しかし彼女は目配せをせども、振り返しはしなかった。表情は見えないけれど、私は想像する。彼女がどんな表情をしていたかを。それは私の内に留めておこう。もっともここまで書いたら想像に難くないことだと思うけど。

ミュージック隊が時々、客席から見える時があった。その時も私は彼女を見てた。時には左上方の台に乗って演目を伺うような瞳を覗かせていた。彼女の瞳に、『キュリオス』はどのように映っていたのだろう。

パンフレットをみても、彼女には名前がない。それは彼女自身の名前ということでなく、『キュリオス』においてということだ。シンガーとだけあるということだ。バックでただ歌うこと、それが彼女の役割なのだと。サーカスやシルク・ドゥ・ソレイユにおける歌の背景は詳しくないから、その指摘が正しいのかは微妙だけど、だからといって、彼女自身の名前を知って楽しむということは、少し違うような気もするのだ。11:11という1分間の時間の中で私が見ていた光景で、私は気づけば彼女を追いかけ続けていた。彼女は私が見ていた『キュリオス』という夢にいる幻想かもしれないし、憧れかもしれないし、また別の名前をつけることができるのかもしれない。それは私自身が決めることである。


CDの感想とか、みごとな演目の感想(特に透明なサーカスとか)も言いたかったんだけど、あまりに彼女の存在に興奮して感涙したのと、眠れないのと、全然関係ないけどシャニマスでマジつらいので今日はここまで。


アイドルマスターシャイニーカラーズ 覚書

アイドルマスターシャイニーカラーズ(シャニマス)にハマった。そもそもプレイしたきっかけってなんだっけって振り返ると、ツイッターでフォローしているかたが記事を書いているのを見て、興味本位でやり始めたのだと思う。というのも、記憶が曖昧である。さほど自分の中で重要じゃないのだろう。

ハマったきっかけより、現時点におけるシャニマスの魅力を語った方が、私としては有意義に感じられるし、それを語りたい。


シャニマスは「演出」の物語だ。それはゲームで得られるカード、特にSSR入手時の際などは圧巻だ。しかし「演出」という単語は、シャニマスというゲームの機能面だけに留まらないと私は思う。

3つほどあげる。


1、アイドルがユニット単位で組まれているため、アイドルの個性は「提供」された「演出」。

2、楽曲において、現段階ではユニットと全体曲のみで、ソロリリースがないため(あってもユニット曲ソロ)、アイドル自身を知れない「方向性」の「演出」。

3、それらを裏側から見ているプロデューサー(プレイヤー)ですら、アイドルの全てを知ることは出来ないという「ペルソナ」の「演出」。


1に関して。シャニマスのアイドル達は、何かしらのユニットに所属していることが前提となっている。そこからソロ活動をし各々の活躍を見せることもあるという描写もあるが、あるアイドルが「このユニットの中のあのアイドル」という所属は抜けない。これはわかりやすさも「提供」している。というのもシャニマスは現時点でユニットが5つ存在しているが、そこからアイドルを遡ることが可能だからだ。だが同時に、アイドル自身の個性「提供」を捨てることにも繋がる。なぜかというと、ユニットに所属する限り、そのユニットイメージに合わせた個性をアイドルは「演出」するからだ。


2に関して。ユニットごとに、テーマとなるような「方向性」があり、アイドルたちはそれに向かって自らを「演出」する。それは楽曲でもみられる。ユニットの「演出」とアイドルの個性が必ずしも一致するわけでない。ソロリリースが今のところないのは、アイドルソングのキャラソン化を防いでいる。


3に関して。1、2は、どちらかといえば、アイドルを見るファン視点での分析と言って良いだろう。しかしプレイヤーはシャニマスでプロデューサーとなり、アイドルをトップアイドルへと導く。その中でコミュニケーションをかわしていく。プロデューサーはファンが見ることのできない裏側を見ているはずなのだ。だが、実際のところ、プレイしているとわかるのは、アイドルたちのことなんてひとつもわからないということだ。テキストの「演出」も加味されているからだろうが、アイドルが本音を言っているのか、嘘を言ってるのか、虚勢を張ってるのか、わからない。プレイヤーは、与えられた選択肢を分析して、アイドルたちの「ペルソナ」を分析するほかない。それが正しいかどうかはプレイヤーの解釈による、という「演出」が施される。



個人的にソロ曲がないというのは、私にとってありがたい。アイドルがキャラソン、つまり己の内面を歌うことに抵抗があるからだ(ここでふとアイカツを思い出す。一期で全体共有曲→二期以降キャラソン化の変遷をたどっていたように思う)。というのも、アイドルが内面を歌ったところで、それを真実だと信じる根拠は、歌にあるのだろうか?だとすれば、アイドルでなく、曲や詩を作ったクリエイターを信じるべきなのではないか?アイドルは所詮、これが私の内面ですと語られた道化なのではないのか?と疑問がつきまとうからだ。ならばアイドルである必要はない。アーティストでよい。さまざまなメディアが発達している今、アイドルに拘る必要はなにかということだ。


そしてもう一つ、トップアイドルとは何かという疑問が、ふとつきまとう。シャニマスPは、さまざまなアイドルをアイドルとして肯定していく。しかしだとすれば、誰がトップアイドルなのだろう?トップアイドルをどのように定義するのだろう?

私は、トップアイドルという定義自体、もう今ではないんじゃないかと思う。無理やり作るとすれば、知名度や経済など絡むのだろうが、果たして、多様なアイドルが今存在している中、それだけがトップアイドルの条件なのだろうか、と思う。


そして私は今日もWING優勝できない。かなしい。