寝床

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バンドリ覚書2

氷川日菜という人間をどう解釈するか。私たちはバンドリを遊ぶうえで、プレイヤーという立場から、あるいは任意のキャラの立場から、彼女を間接的にしか理解することしかできない。なぜなら、ゲーム内で、彼女は徹底的に、語り手から断絶された「他人」として描かれているからだ(余談だが弦巻こころや花園たえも該当するだろう)。(…)内でキャラの気持ちが直接伝わらず、一人称として語られない。そのキャラ(市ヶ谷有咲や白鷺千聖、氷川紗夜などが多い。水着イベでは白金燐子が該当するであろう)からみた、断絶された「他人」である氷川日菜という人物の解釈は、私たちを混乱させる要因であり、氷川日菜のことを全く誤解させている。


私たち視聴者、つまりバンドリプレイヤーであるが、それと語り手であるキャラや視点が、日菜を見つめたとき、真っ先に判断する彼女の解釈に該当する言葉は「天才」である。

判断材料はなにか?

なんでもすぐにできる。努力を知らない。擬音語を用いて表現を試みる。美術室の匂いが好き。地図記号が読めない。行動が突飛な変人。人の気持ちがわからないような言動。様々だ。

私たちはキャラの目を通してこれらを知ることができる。例えば。

氷川紗夜は妹である彼女を私とは違って「天才」と評し、自分を卑下する。白鷺千聖は努力を前衛としているが「あなたは天才だからなんでもできるだろうけど」と、日菜を天才であることを前提とし、また自分とは別の人間として分析する。

私たちはある視点からこれらを知ることができる。例えば。

『パスパレ探検隊』で、日菜の行動にメンバーが驚きはしなかったものの疑問は抱かなかった。

私たちは彼女たちの世界観を、無邪気に信じることが、氷川日菜の解釈なのだろうか?いや、それはない。そこには全く論理が結びつかない。私たちと彼女たちもまた「他人」だから。

私たちは、誰かの視点に自分を委ねるのでなく、情報をかき集めて、彼女たちの会話やテキストを冷静に分析し、氷川日菜とはなにかを一から組み立て解釈する必要があるだろう。

私たちはゼロから日菜を疑わなければならないだろう。


まず最初に、日菜は本当に「天才」なのか。

これに対する答えは既にある。否である。

それはなぜ言えるのか。そもそも「天才」とは何か。

端的にあらわせば、「天才」とはある結果に対する時に与えられる呼称である。何かを成し遂げた時の評価が、これである。紗夜の視点を参考にしよう。彼女は「日菜は何でもできる」と評す。ロゼリアバンスト12話をみてみよう。彼女はテストで「また」100点をとっているらしい。それが高評価ならば「天才」なのである。

しかしこれには落とし穴がある。この素晴らしい結果には、他の誰か、本人以外の「他人」、この場合判断基準があるわけだから何らかのシステムでも良いのだが、それによって判断されるわけだが、それは見方を変えれば相対的なものであるということだ。

紗夜からみた「天才」という「結果」は、彼女の自己卑下が関わる。また(学校のレベルという段階で憶測が混じってしまっているだろうが)、日菜の学校のテストで100点をとったという「天才」という「結果」は、テストの難しさがどれくらいか、周囲の学力レベルがどれくらいかで、容易に変わるだろう。

そんな中でも、到底真似できない「結果」を日菜は残している。ギターである。彼女はギュイーンと一発で弾きこなしてしまうのだから。これは「天才」以外には容易に出せない「結果」だろう。と。

しかし、ここにも穴がある。これは本当に「天才」だから導き出せる「結果」なのだろうか。

彼女は、昔から何でもできるらしい。姉のやることすべてすぐに追い越して行ったらしい。その「結果」は優秀なもので、確かに「天才」と思うかもしれない。

しかし、これはこうも言い換えられないだろうか。単に「器用」であるから、そういう「結果」を生み出してしまったのであると。

せこい理屈かもしれないが、一応、根拠を示そう。日菜は、紗夜がずっと日菜の行動によって傷ついてきたことからわかるように、紗夜をずっと無自覚に傷つけてきた。これは、同時に紗夜の「不器用」さを傷つけていたからではないだろうか。

紗夜はよく「努力」をする人であると評されるが、「天才」と「努力」というものは、対比するにはお門違いである。「天才」は「結果」であり、「努力」は「過程」であるから。「器用」さと「不器用」さ、という構図のほうが、日菜と紗夜の構図をあらわすのに相応しいのではないだろうか。

日菜は「天才」という言い方は相応しくない。「器用」である。

だから「不器用」な紗夜を無自覚に傷つけていた。


ここで、新しい疑問である。前述の「無自覚」という言葉に関連することである。日菜は、紗夜の顔を伺いながら、ずっと前見たく仲良くなりたいと思っていたにも関わらず、紗夜に冷たい行動をとっていた。またある時は、レッスンができない丸山彩に「どうしてできないの?」と発言する。


日菜は本当に「他人」の気持ちがわからなかったのか。

これは簡単だ。イエスである。

日菜の行動や言動から推測してみることにする。まず、日菜はよく擬音語を使い、しばしば周囲を混乱させる。これは日菜の言いたいことが、イメージが、世界が、伝わっていないから、言語を通して繋がっていないからである。彼女の「るんってきた!」は、私たち風に言えば「それはとても面白い」というごく単純な褒め言葉かもしれない。あるいは「今日は星が綺麗だ」ということを伝えたいのかもしれないし、「ザクっていう音が好きだから紅葉って好きなんだよね!」という思考なのかもしれない。しかし、日菜の表現はそうはならない。全部、日菜語で表現される。これは何を意味するか。それは他でもない、日菜が「他人」にその表現で伝わると思っているからである。

日菜は彩と会うまで、「他人」の面白さに気づかなかった、と話す。その前には、紗夜によく「人の気持ちになって考えなさい」と言われていたという。


ところで、ここまでで非常にわかるように、あるいは既に私たちが実感しているように、日菜は「他人」に翻弄されていた人間であることがわかるだろう。そこで日菜の動揺があるかは別として。

それは千聖も既に物語内で経験していることだ。『つぼみ開くとき』で、彼女はメンバーから誤解を受けていた。白鷺千聖は子役からのベテラン女優。だからなんでもできるはずだ。「千聖ちゃんならなんでもできるって思ってたよ」という日菜の言葉は、まさに千聖にとって日菜が千聖を翻弄する「他人」になった瞬間のいい例だ。

日菜の話に戻すと、日菜の「天才」という「結果」は、必ず誰かの判断基準がある。それを広義に「他人」と言うならば、それが彼女を翻弄するだろう。また日菜がずっとわからなかった「他人」は、言語を通して日菜とは繋がらない。日菜のことは、本人がどう思っていようが、誤解を誤解のまま伝えていく。それは人間ならば誰でも起こり得ることだが、日菜はそれに鈍感である。そしてメタ的に言えば、最初に述べたように私たちは日菜と「他人」としてしか接することしかできぅ、介入を許されない。




ここからは私の妄想と推測が入り混じるが、すると、日菜は「他人」がわからなかったように、「自分」もわからなかったのではないか。

そんな彼女を今までに繋ぎ止めてきたもの。それは紗夜と「双子」であることでないか。

「双子」は「一緒」。だから「おねーちゃんの真似をする」。

一緒に姉の好きな犬の番組をみようと誘う時の「あたしたちって双子じゃん?」というロゼリアバンストでの発言はそれを裏付けないか。

日菜は一緒に何かをし一心同体であるところの「双子」というアイデンティティが「自分」であるから、おねーちゃんが大好きであり、だから「他人」を知らなかった、別に知る必要もなかったと言えないだろうか。

皮肉なのは彼女の思っている「双子」も、私たちが検討してきたような「天才」と同じく、ステレオタイプな見解なことだろうか。





余談だが、今までに述べなかった、地図記号が読めない、美術室の匂いが好きなどの要素は、「天才」と呼ぶ時に判断する根拠に使われるだろう。私はこれはミスリードであると推測する。つまり、彼女が仮に「天才」だとしても(これに関しては否定したのだけれど、ある天才をみて天才と呼ぶ時)、なんら関係ないことである。先入観が私たちを邪魔しているだけなのだ。「結果」として血のにじむ努力をして掴んだら「天才」と呼ばれたり、「過程」として何もしていないのにヤマが当たって連続で100点を取り続けそれを黙り続けていたら「努力」と呼ばれたり。実態は逆であるにも関わらず。


余談その二。バンドリには本物の「天才」がいるだろう。瀬田薫である。

瀬田薫がなぜ天才か。それは彼女がすごい演技をする「結果」を残すことは勿論だが、儚い儚い言ってる変な人だからというのは根拠にならないことは、もうお分かりの通りだ。彼女が日菜と違い「器用」と片付けられない理由。それは、こころが指摘していたが、シェークスピアに対する「愛」……を利用した、寂しい心を埋めることである。言い換えればその「執着」である。この「執着」こそ、「天才」という「結果」を生み出すのである必要な条件である。逆に日菜はない。なぜならそもそも「自分」がないから、その「執着」する対象が、わからない。彼女はまるで自我の芽生えていない幼子だ。




ここまでの解釈で、石田麦さんのツイートを多大に参考にさせていただきました。