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メルヘン・メドヘン(7話まで) 雑記

メルヘンメドヘンアニメ7話をみて大笑いして、後世のクソさに腹が立って、ゆっくり眠って、今日メルヘンメドヘンOPを聴いたら、泣いてしまった。葉月が勇気を出して物語を手に入れるまで、美しい旋律と歌声で、神々しく想像されてしまう。特にDメロは、葉月の持つ原書、シンデレラをなぞったもので、素晴らしい。鍵村葉月のための曲として、素晴らしい。

悔しいので、メドヘンアニメのクソさを語る。本当は原作全部読んでアニメ終わってからの方がまとまるんだろうけど、忘れちゃうから。焦点は葉月が自分の物語を綴ったアニメ6話までに絞った。あそこは一つの山場だし。原作読むのまだ追いついてないから、比較に関しては途中になってしまうけど、それでもメモには十分だと思う。

6話までの大まかな流れは、強力なシンデレラの原書を手にした主人公鍵村葉月が、魔法が使える世界で縁あって土御門静と出会い、自分だけの物語を手に入れる。葉月は物語症候群と自らが名付けた行動をしばしばとる。緊張したりすると本を読んで物語の世界に耽る、という。そのせいか、彼女にはしばしば妄想癖がえある。

葉月の周辺にいるキャラクター配置、特に家族は、シンデレラを意識されていると容易に推測できるものだ。実母と死別し、再婚を経て義母と義姉ができる。葉月は気まずい思いをしている、という。最終的にその気まずさは自分の内向的性格が原因であることに気づく。シンデレラの配置はフェイクであり、また見方を変えると寓話的である。葉月は、シンデレラの物語はあんまり好きじゃない。シンデレラの中にシンデレラがいないみたいだから、という感想を原作では述べていたけれど、それを自分のものにした瞬間、葉月はシンデレラの原書を発動できた。

こう考えると、原作はとてもオーソドックスな話で、ここに書いていること以外にも魅力的なキャラクターが主に葉月を通して描かれており、面白いと感じるのだけれど、アニメは面白い面白くないというより、とんちんかんという印象だ。で、これは多分、原作かたアニメにする際に必須な「どこを切り取るか」「どこにどうやったオリジナル展開を入れるか」という取捨選択をミスっているのだろうと思う。

葉月が自分の物語をみつけるという話と、シンデレラの原書を持っているという事実、そしてシンデレラ的な配置がなされている寓話のような構図、これらをアニメではどうしたかというと、寓話的構図を取っ払い、静との絡みを増やした。1話は顕著で、シンデレラの原書は、原作では「(死んでしまった)お母さんのドレスの中になんかあった変なやつ」だったのが、アニメではその部分はカットされ「学校で物語症候群を発動した後、本屋に行って本をめちゃくちゃ買い(ちなみに原作ではここは単行本一巻であった)、その中に紛れ込んでいた」というものである。静との出会いも、アニメでは運命的に描かれているように思う。原作では「いつの間にか間違えてカバンに入れてしまった、なぜか開かない原書に落胆していると、周囲がぶつかっても気づいていないような少女がいる、あれ魔法じゃね?とわくわくしながら追いかける」アニメでは「紛れてた本の中にあった原書を奪ってくようにして物を持ち去る。葉月は追いかける。魔法じゃね?とテンションあがる」。静が置いていくものも違ってくる。告白するシーンは一緒だ。

あと、アニメで大幅に脚色された点は、「葉月が静の名前を知りたがる」ということだ。それがわかるのは魔法ステッキの部分。原作では既に名乗られているので、茶化して終わるのだが、アニメでは、静ちゃんっていうんだ!と感動するのだ。そしてファストフード店で、お互いの絆を確認し合うように、名前を呼び合う。

素晴らしい百合である。天才である。

しかし、本編の軸からは外れているのだ。

六話で、シンデレラの物語を受け入れるのではなく、私なりのシンデレラを綴る、この結論を、綺麗に導くためには、やはり寓話の構図は外せなかったのではないか。

義母と義姉が、葉月をパーティに誘う時に身につけるドレスは葉月の実母のものであったが、アニメでそれに関する詳しい描写はなく、些か急で、不自然だった。

静との百合描写が増えることは嬉しいに限る。しかし、それにより、寓話的構図が減って、中途半端にその名残が残って、チグハグな印象しか与えず、トドメの7話で葉月は対静さん特化百合キャラという奇妙な立ち位置になっている。



原作付きアニメというのは取捨選択の段階で面白さが決まると言っても過言ではないのだろうか。で、中でもライトノベル原作は、その傾向が顕著ではないかと思う。キャラクターの多さと、モチーフ、その使い方、それらと主人公の物語との関連。難しいのは、文字媒体であるからこそ描ける映像もあるということを忘れてはならないことだろうか。漫画やソシャゲ、ゲームだと、映像を画面に適用しやすいが、ライトノベルは、台詞をそのまま台詞として会話させても、その間にある、特定の一人称や三人称の空間を、どう画面に落とし込むか、どう会話のテンポに取り入れていくか、そういうことも大切なのかなとも思う。



話は逸れるけど、ちょくちょく「この作品はまるで1本の映画のようでおもしろい」という感想をみかける。小説、アニメ、漫画、媒体を問わずだ。とてもおもしろいと思うし、ライトノベル原作アニメをつくるうえで参考になる感想になるのかなと感じた。

この感想の中にあるのは、前述の、会話の間ではないかと推測する。それを演出なり作画なり演技なりあるいは会話の飛び具合なりで示されるものなのではないか。そして、そこで生み出されるのは、会話に参加しているキャラクターや、そこに関係する人たち、物、動物、または歴史とか、あらゆるものを、想像することなのだろうと思う。創作という文化はそういうところから生まれていくのかなと想いを馳せる。


というわけでメルヘンメドヘンOPを聴いてほしい。原作、アニメを通して、鍵村葉月の物語を垣間見てほしい。