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バンドリ雑記4

想定された視点からストーリーを読み、解釈することは、正しさが伴うが、逆が間違いというわけではない。勿論、想定された視点を持っていたほうが、そのストーリーの楽しみかたを熟知している、という時点では、想定された視点でストーリーをみるというのは、あるジャンルのストーリーを初めて読む際、とても重要なことになるだろう。

バンドリガルパがリリースされてから約一年。私も最初は想定された視点からストーリーを楽しんでいたが、そうでない視点へ、徐々に関心が移ろいでいる。バンドリガルパにおける想定された視点については、バンドリ雑記3にて書いた。つまり、バンドリガルパにおいて、キャラクターの視点に沿った描写が想定された視点であること、そしてその視点というのは非常に狭いこと(それがバンドリガルパのすぐれている点だ)、である。

私の関心が移ろう原因が、私の気質にあるのかまた別なのかはさておき、現在私は想定された視点ではないところから、バンドリガルパのストーリーを読んでいるので、当然、その解釈もあるわけだし、それに伴う感想もあるはずである。ブログを確認のために読み返したら、文章が非常に気持ち悪いと感じた。解釈だけ書いてあって、感想を書いていないことに気がついたから。そして、私が言いたい、発したくてたまらなかったのは、感想の部分であるにもかかわらず、それを抑えるかのように振る舞う、私の装いが気に入らなかった。

随分回りくどい前置きになってしまったが、これは私の個人的な納得の方法であり、それをどう言語化するか、悩んだ結果だからである。感想を書こうとして感想を抑えて感想を書かないってどういうことだ、と、ちゃんと書いておかないと、後で私自身も未来の私に過去の私でぶん殴れないからである。

で、肝心の感想部分であるが、私はバンドリガルパの構造はそんなに嫌いというわけではないけど、パスパレ2章が大嫌いだ。その理由を述べることに尽力する。



そもそも私はバンドリガルパの長所である「非常に狭い」価値観自体は苦手である。それは私のような想定された視点でない視点が制約される可能性があるからだし、そういうコミュニティにいがちだった、という個人的な経緯がある。これは経験的なことであり、私にとっても致し方ないことであると思っている。

しかし、パスパレ2章は、どうも説明を個人的経験とは片付けられない、非常に美しくない構造をしている。それは、パスパレ2章では、芸能界(それも現実世界寄りの、不条理が伴う世界)という場所に置かれながら、「努力で夢が叶うわけじゃない」の正反対にある「努力で夢は叶う」という理念としての象徴として描かれる「アイドル」を、そのまま語っている構図そのものに原因があると思う。


2章と限定したのにはわけがある。1章においては、「努力で夢が叶うとは限らない」と「努力で夢は叶う」は、千聖と彩というキャラクターを通じて、見事に対立し、千聖が彩に見せられる、という成長物語があったからである。しかし、2章になると、まるでその場所の時間だけが置き去りにされてしまったかのように、「努力で夢は叶う」が、ストーリー全体に充満している。千聖は「努力で夢は叶う」側へ行ってしまい、スタッフへ懇願する。何をか? 映画とアイドル合同ライブという、無茶なスケジュールをさせてもらえることを、である。

この千聖の行動は、あらゆるバンストを通して、「努力で夢は叶う」を信じ、夢をみてみたかったから、薫に助言をもらったから、と解釈すればなんら疑問は浮かばない。しかし、その前のスタッフの、千聖に対する対応は、千聖の体力を気遣って早めに送迎することであった。千聖はそのスケジュールを押した。なるほど、そもそもスタッフのスケジュール調整が無能なせいで、アイドル合同ライブの参加も突発的だったし、映画の仕事と被ってしまったのも、彼らに非があると言われるのも納得である。無計画さは目立つ。考えてみると、根本的な原因はやはり彼らかもしれない。しかし、それとこれとは話が別で、まず芸能人の体力を気遣うというのは、懸命な判断であっていいはずである。

芸能人の健康をとるか、未来をとるか、それはバンドリガルパ以外でも、各所芸能界の動きをみれば、各々判断が様々なことは容易にわかる。ファンの声や他イベント状況などで、調整が必要な時もある。

気に入らないのは、千聖がこの判断を下したのが、「努力で夢は叶う」というパスパレ内での同調圧力のようなものから生み出された選択肢であり、話のすり替えをしているだけになっているように見えるからである。

同調圧力という言葉を使ったのは、わけがある。解釈に関しては以前の記事を見てほしいが、パスパレがなくなると困るのは、特に日菜とイヴである。この二人は、居場所を失う不安からか、率先して他のメンバーを団結させようと動く。つまり、日菜は5話で彩に発破をかけ、イヴは7話で論点をすり替えパスパレがなくなることを想像つかない彩に巧みに想像させる。影響された彩の行動は、千聖にダイレクトに響く。千聖は彩の信念に魅せられてしまっているからだ。このような過程を経て、千聖の行動がある。麻弥も「アイドルがわからない」と言っていたように、自信がないから自分の意見が言いにくい(テキストに現れにくいのはこれが原因か)。

千聖の行動は、突き詰めれば、寂しさからくるわがままがもとであり、それを「夢」と還元するのは、非常に美しくなく、これまで綺麗に語られてきた「夢」に対して失礼なものだった。

全く別の作品だが、具体例を挙げてみる。ちょっと昔のアニメ作品で『プリティーリズム』シリーズというものがあった。シリーズの一つ『プリティーリズム・レインボーライブ』作中で「子どもを愛さない親はいない」という旨の発言があるが、これは現実世界では否であることは、様々なニュースを鑑みれば、わかるだろう。しかし、『プリティーリズム』シリーズという作品では、登場キャラクターの親子関係における確執を、綺麗に描いている。親に愛されているけれど、家に来たお友達は親がいない子だったり、親に過度の期待を持たされたち、親がストーリーの最初からいなくなってしまっていたり。キャラクターの親子関係は様々だが、一貫してこの作品は、親は子どもを愛するし、また子どもは親を愛している。そこにはなんら疑いもなく、そしていつか捨てられるのではないか、という類の不安もない。「子どもを愛さない親はいない」は成り立ち、いつしかそれをみる私たちにとって「子どもを愛さない親はいない」という言葉が、フィクションを超えて、救いとして響いてくる。

この話のような明瞭さは、パスパレ2章にはない。「目標」の反対の「夢」、「努力で夢は叶うとは限らない」の反対の「努力で夢は叶う」、これらが勧善懲悪として描かれるような話は、例えばプリキュアのようにある程度設定された年齢があって、「努力で夢が叶う」から出発する単純な世界構造でもない限り、物語構造として美しくなく、「夢」という単語を安売りしているだけのようである。


ここで少し話題を変えてみる。「夢」という単語を頻繁に使用するキャラクターは、丸山彩である。彩はずっとアイドルになりたかったと言っている。そしてパスパレでアイドルすることを叶えている。しかし、2章を読んで一つ疑問に思うことがあった。それは千聖との会話で、かつて彩があゆみさんにそうされたように、あゆみさんの言葉を反芻するような言い回しをしていたことだ。これは、見方を変えれば、あゆみさん、彩、千聖、という一つの夢の線が成り立っており、非常にドラマチックなシーンだ、とも言えるかもしれない。しかし先述のように「努力で夢は叶う」ところのパスパレは、日菜とイヴの影響が強く、彩だけのものではない。それどころか彩はパスパレという居場所に対しては受動的でさえありうる。

ここで唐突だが「運命」「試練」という言葉を用いて彩を説明してみようと思う。「運命」ー「試練」は、それぞれパスパレ2章ででてきた単語、「夢」ー「目標」に対応する。つまり、何かしら自分の職業に対し「運命」を感じ全てのことに意味を見出していくことが「夢」、周囲の出来事を偶然の集積と捉え「試練」を乗り越え得るのが「目標」、というように。

彩は、千聖が焦がれる「夢」側の人間であり、「努力で夢は叶う」と発し続ける信念の持ち主であるが、「夢」に対応した「運命」的態度の人間ではなく、「試練」的態度の人間ではないか?私はそう思うのである。

彩はMarmaladeの番組を見て、あゆみさんに憧れ、アイドルを志す。これだけみるならば彩にとってアイドルとは「運命」的な出会いである、と思うかもしれない。しかし彩の態度をみると、(あの無能の事務所に?)研究生生活を3年続けていたり、パスパレがなくなった自分のことを想像できない。これらの対応を、年相応、と言えば納得できなくはないが、では、このままでも彼女はファンに夢を与え続けられるのか?と聞かれたら、私はどこかで挫折してしまうのではないのか、あるいはパスパレで誰より一番早く、と危惧する。夢を与える、とは言うものの、結果的に夢を与える描写はあっても、彼女自身が夢に対する執着する心のありかたが、あまりみられないのだ。その代わりに「千聖みたく有名になりたい」という野心が垣間見えてくるのが、彼女の非常に面白いところではあるのだが、今回のパスパレ2章においては、「努力で夢は叶う」、「夢」を美化しすぎていて、そのアンバランスさも排除されている。「努力で夢は叶う」わけないけどそれを目指すことで燃えるのに、「努力で夢は叶う」と言い張ることでその言い分を叶えてしまい、挙句反対の「努力で夢が叶うとは限らない」(=スタッフ、千聖のもといた場所)を否定していく成敗話。一貫していないので、美しくないストーリーなのである。そしてバンドリガルパなので、非常に狭い見識の話でストーリーが進んでいく。息が苦しくなるのである。



一つ余談を。羽丘演劇部についてである。ここの構造も考えていくうちに、パスパレの中身と似ているのではないのかと思い至り、書き留めておく。パスパレ2章で薫出てきたし。

羽丘演劇部は、薫がいる間はシェイクスピアしかやらないらしい。演劇に関して色々調べると、これはなかなかすごいことだ、と思った。薫の影響力は、想像以上のものだったのだ。

演劇というのは、俳優、演出(全般)、観客、三つが揃って、お互い作用しながら完成するものである。私たちは、今、この三つの項目の外から、演劇部という枠を眺めている。なので(というのもおかしな話だけど)、一番目立ちがちな薫たち俳優に、焦点がいきがちなのも、まあ納得ではある。ところが、薫がいる間はシェイクスピアしかやらないという記述をみる限り、明らかに俳優中心として羽丘演劇部は動いている。薫、シェイクスピアの中身わかってないのに。そもそもオリジナルの戯曲書く人とか、いないのかな。そうか、薫ファンが多いから、なんの問題もないのか、それはそれで儚い、と。あと、シェイクスピアって、会話が中心だから、舞台美術は時代によって結構変えられるという記述をどこかで読んだ。めもっとけばよかった。

話は膨らむが、これが、部活が活発である花咲川で行おうとなれば、少し話は違うかもしれない。全国大会ともなれば、やはり技術的要素が求められてくるのだろう。審査員という外部の人間が入るのだから。そしてバンドリガルパではその存在はいらないから(…そう思うと、『つぼみ開く時』に出た宮川先生は、すごく奇異な存在だったなあと。最終的に、あの話もパスパレ仲よくてよかった、という方向に落ち着いたので、そういう話ではある)。羽丘演劇部は、今の情報から判断するに、薫のカリスマで成り立っている部活だろう。例えば、セットが演劇的にみてぐちゃぐちゃでも、音響がへたでも、薫の演技があればなんら問題ないのである。あと観客も子猫ちゃん(=ファン)だから。最も、麻弥がいるので、簡単にそんなヘマは起こさないとは思うが。綱渡りのようなチームワークで成り立っているすごい関係である。