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少女☆歌劇レヴュースタァライト(11話まで) 雑記

 少女☆歌劇レヴュースタァライトのアニメが11話まで放送された。7話まで無料配信された際、一気に視聴し、この作品にはまって、舞台版のBDを買うまでに至ったが、7話以降、話の内容がどうにも理解しがたいところがある。
 その前に、まず7話について語っておく。7話は文句なしによくできている傑作だった。
 7話は、大場ななの過去回、掘り下げ回だった。大場ななは、第99回聖翔祭スタァライトを永遠のものにしたいがために、オーディションに勝ち続けて、キリンに願い、第99回聖翔祭を繰り返す。
 7話の面白いところは、スタァライトというアニメにおいて、舞台やアニメ、漫画などのメディアミックス展開ゆえに情報を細かに出せないがゆえに(意図的に隠したりしているということを、メガミマガジンのインタビューでプロデューサーが語っていた)、台詞や状況説明が時々ぶつ切りになってしまうような違和感を、なな一人にうまくフォーカスすることによって、カバーされていたことだ。それが偶然なのか意図されていたことなのかはさておき。ななの孤独な状況が、会話の間、真矢の赦さないという否定の言葉や、クラスメイトと信念が違うことへの不安感、引きのかすかな空を仰ぐ動き、淡い夕焼け、それらによって手に取るようにわかるのだ。
 キリンとの対峙シーンでは、トップスタァになれる、そうすれば永遠の輝きを手に入れられる、舞台少女として才能を開花させることが出来る、という発言を、真っ向から否定する。ななにとって、舞台少女であることは、孤独を癒す手段でしかなかった。でなければ、興味ない、なんて発言しないだろう(ななは勉強が苦手という設定がある。考え事も苦手と同様に考えるなら、「なにそれ」などの疑問返しをするのが、省エネだろう)。キリンとななは、対立している。しかしキリンは、話をすりかえ、もし運命の舞台に立てるとしたら? と悪魔の提案を持ちかける。9話の過去で判明したとおり、孤独を嫌うななは、その誘惑に乗ってしまう。なまじ才能があるものだから、真矢さえ倒してしまう。
 真矢はおそらく、最後まで自分がななに負けた理由はわかっていなかっただろう。彼女は「何が彼女を変えたのか」と原因を聞いている。そんなもの、ななにはない。自分の気持ちがわからなかったけれど、「わかります」って言われたから、孤独がいやなんだなと自分自身の気持ちを肯定できた。みんなを守りたいという気持ちはエゴで強欲まみれだ。しかし、キリンにとっては都合がよい。そのほうがみてて楽しいから。だからキリンはななの手助けをしてくれた。そして、オーディションを仕切っているのは、キリンだ。舞台装置が舞台少女のきらめきによって勝手に動き出すらしいが、オーディションで誰が争うかを選出しているのは誰かというと、キリンであろう。舞台装置がなんていうのは方便だ。キリンが味方をしてくれればいくらだってオーディションは有利になる。
 でも、ななは強いので、飽きる可能性がある。しかし私は、ななの勝ち続けるオーディションを、キリンはそれなりに楽しんでいたのではないのだろうかと思う。彼女は強欲な人間で、完璧な再演を願っているにもかかわらず、行動を少しかえて遊び始める。やってはいけないことをするのだ。
 これは異分子、神楽ひかりがきた時も同様である。ひかりが来た時点で、再演は完全に崩壊する。しかし、ななが言ったことと言えば「あの子もほしくなっちゃいました」。これは、7話の後の時系列である3話をみれば、導かれる結論は一つ、彼女は演劇の楽しさに目覚めているのだ。

 ・・・・・・という話だと思ってたら、8話からよくわからなくなり、結局ななは孤独を誰かにみつけてもらったまま(前日譚まんがであるオーバーチュアを読むと、純那に見つけてもらうために、はじめから動いてたのではないかと、深読みしてしまう)、演劇の楽しさを自覚はしておらず、練習はせず才能にあぐらをかいたままお菓子を焼き続けている。「ひとりで」頑張って脚本を書いた、舞台を愛し、舞台に誠実で、スタァライトをよりよいものへと尽力したらしい脚本担当、雨宮さんには謝らないままだ。聖翔のシステムどうなってるんだろう。コミュニケーションの授業とかしないのかな。
 トップスタァを目指してオーディションをする、そのために戦う、敗者はきらめきを奪われる、その理屈はわかるけれども、どうも内輪にこもりっている話すぎて、これが舞台が題材で、トップスタァを目指す女の子たちの話ですというのが、見失われているように思う。あの天堂真矢でさえも。11話でメイン9人が舞台少女幕間を歌っても、舞台少女たる彼女たちが舞台を届けるべきなのは、未来、あるいは未来にいる観客なのだ。彼女たちは、彼女たちの中だけで、舞台ごっこをしているにすぎない。これが普通の高校の学園祭の話だったら、まだわかる話だったかもしれないが、100年の歴史がある音楽学校という背景設定だと、演劇や歌劇の話をしないと、説得力がないように思うのだ。雨宮さんが華恋に、ひかりのことは忘れて真面目にやれというのは、舞台の世界に生きるものとして、正論なのだ。

 ところで、7話において、退学した生徒が2人、描写された。2人のことについては、もう、メイン9人は、忘れてしまったのだろうか。少なくとも、ななは、2人が退学した事に関して、心を痛めただろう。
 しかし、11話時点では、もうすでに、彼女たちはただのモブである。「舞台はみんなで作り上げる総合芸術」であることを念頭においていないのである。仲間内だけでやりたいのであれば、学校でやらないで、クラブを外で作ればいい。華恋が舞台に執着するのは、ひかりとの約束があるからだが、これだけだと、物語としては動機が薄いし、前述のように雨宮さんの正論に適わない。華恋はカリスマ性あるし、実力も身体能力もあるみたいだし、聖翔にいても、舞台人として生き残れるのかという疑問が付きまとう。

 さておき、話を戻して、退学したあの2人にとって、聖翔音楽学園とは「透明な嵐」そのものだったのではないだろうか。透明な嵐とはユリ熊嵐というアニメの用語で、詳しい説明は、公式サイトやアニメをみていただくことで、割愛する。
 そう、華恋達が団結すればするほど、「透明な嵐」は吹き荒れ、大切なものから壊していく。透明にならない、透明な嵐に排除される危機感に怯えているからといって友達をつくらない、最後までスキをあきらめない人に、「排除の儀」を行って、追放する。
 逆説的になるが、退学した2人は、舞台を愛した人間だったのではないだろうか。それこそ、ユリ熊嵐の、紅羽のような。そして聖翔音楽学園2年A組という「透明な嵐」は、終盤で出てきた、まさしく大木蝶子のような存在だったのではないだろうか。余談だが、私は大木蝶子がスキだ。彼女をスキと言い続けることに意味があると思っている。
 この構成を意図的にやっているのだとしたら、本当に恐れ入るのだけど、どうなんだろうか。私はキリンがわからないし、わかりたくない。