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バミューダトライアングル〜カラフル・パストラーレ〜 雑記

バミューダトライアングル〜カラフル・パストラーレ〜という物語は、感情が連続しているものではない。ソナタ、キャロ、フィナ、セレナ、そしてカノン。独立している個々が、それぞれ大切なものを見出していくという、極めて自発的な話だ。だから、このアニメを、物語といってしまっていいのか、そのことには、疑問が残るであろう。敢えていうなら、人物に連続性がないのであれば、それを視聴者が見出すことになるのだ。

どちらかといえば、このアニメはドキュメンタリー的な作りかもしれない。パーレルという村に焦点を当てて、その全体像を描いていたのかもしれない。もちろん、視点はソナタたちに寄っていたが。10話にてソナタがパーレル始まり伝説をなぞらえたお祭り撮影係でも、それは対応する。ソナタはきちんと取れていなかったと反省するが、卑下することは何もないのだ。だってそれはソナタの見た世界、キネオーブに残ったその映像は、パーレルに残されたお祭り資料と同時に、ソナタの認識世界、ソナタの良かったなあって思っていた世界でもあるのだから。それを、映画館という場所で、共有するのだ。ちょっり恥ずかしくても、拙くても、共有という体験を経ると、人は変わる。もちろん、マーメイドでも。


カノンは、共有がしたかった。自分だけが発見した小さなキネオーブの景色を、みんなと共有したかった。でも同時に、自分の夢も共有したかった。オーディションに出て、歌うという夢。それも一人ではなく、五人で、という夢。でもそれは矛盾することだった。どちらかを選ばなければならないことだった。だから、カノンは結晶化した。結晶は、矛盾した気持ちを素直に言えない心の葛藤なのではないのかと思う。作中、ヴェラータも結晶化したことあったと、アルディが語っていたが、散々パーレルについて愚痴を言いつつ、何かその心中、思うことがあったのかもしれない。


皆は、カノンの気持ちを推測はすれど、決めつけようとすることはしない。カノンを結晶化したまま四人が歌っていたのは、カノンがそう願っていたからかな?という推測で、そうあるべきだというわけではない。そう、皆、不安だったのだ。思えば皆、パーレルという村から、出たがっていたではないか。なのにどうしてあの場所にいるのか。ヴェラータもどうして嫌々ながらも故郷の場所を逐一覚えているのか?そこには、寄り添う心の存在があるからだ。皆、優しいからだ。パーレルという場所が、とてもいいマーメイドやマンタやアザラシ、ひじき、塩ゼリー、サンゴ糖、映画館に、恵まれ、時間の流れがゆったりとしているからだ。

カノンの結晶を破るのに、余計な詮索は要らなかった。心に寄り添うことができればそれでよかった。それは、歌うことだった。そしてそれは、四人もなんだか楽しかったことだった。カノンは四人によってパーレルという村を気に入り、四人はカノンによって歌を気に入った。


シャボンはカラフル・パストラーレを祝福する。その名のごとく、すぐに弾ける泡のように、刹那の夢を、観客に伝える、アイドルとして。輝きは一瞬だ。キネオーブが壊れ復元が不可能なら映画が見られないように、アイドルがいなくなればそのアイドルを生身で追いかけることもまたできない。カラフル・パストラーレは、ステージに立った瞬間、一つの作品となった。パーレルにそれを記録できる媒体があるのかは、定かではない。しかし、もしキネオーブに記録できるのなら、きっとこの先も受け継がれるのであろう。そして砕け散っても、その姿は未来に語り継がれるのであろう。


パーレルに伝わる伝説の話。パーレルとなった元の真珠。それが砕け散った後、小さな光となり輝くこと。クラゲにならず、たったひとつの真珠を見つけること。

例えば、今、カラパレは円盤発売の知らせが届いていない。アニメのサウンドトラックや関連情報が、ない。配信サイトではなお見られるが、それもいつ終わるのかわからない。いずれ私たちはカラパレを一生見られなくなってしまう日が来てしまうかもしれない。それは大げさに言えば死と同義、いやいずれ誰からも忘れられてしまうと思えば、死と同義ではないのか。

しかしそんなことはないだろう。だから私はこれを書いている。カラパレはここにあった。間違いなくその存在は私の心に刻まれ、最終回では涙を流させられた。

さすがに多忙に追われてる際などは、いつもカラパレを思い出せなどというのは、無理がある。しかし、ふとした時に思い出すアニメとなったことは、言うまでもないだろう。その感情をカラパレに想いを募らせた各々が抱えて生きていくこと、それこそまるで、小さな光となって輝いて、それでいいのですとソナタが言っていたこと、そのものではないかと、思う。